向井左近将監忠勝
向井流2代目。父は向井兵庫頭正綱。母は長谷川三郎兵衛長久の娘。天正10年(1582)5月15日駿河国清水で生まれ、寛永18年(1641)10月14日江戸にて60歳で没する。
忠勝は慶長2年(1597)18歳の頃から、父正綱とともに2代将軍秀忠に仕えた。慶長6年(1601)には、相模国三浦郡内に知行地500石を拝領し、水主50人と将軍御座船国市丸を預かり、父正綱同様御船奉行となった。以後慶長15年(1610)、九鬼長門守守隆、久永源兵衛重勝らとともに淡路島に赴き、西国大名所有の500石以上の軍船を没収し、江戸湾と駿河湾へ回漕した。
忠勝の武勇は限りなく、慶長19年(1614)大阪冬の陣、および翌元和元年(1615)大阪夏の陣では、徳川水軍の一番槍として従者も付けず小船に乗り、単身敵船に乗り込み相手を海に突き落としたという。その戦功により、元和3年(1617)相模国三浦郡内に2千石が加増された。また、元和9年(1623)秀忠の上洛に従った。
父正綱没後の寛永2年(1625)、父の遺跡を継ぎ知行5千石、水主同心100名を預かることとなる。また、寛永3年(1626)、3代家光より朱印状を受け、相模国三浦郡内で26ヶ村4307石3斗、上総
国望陀郡内の3ヶ村575石1斗、同じく上総国周准郡大和村57石5斗の合計5千石、および新たに新開地を含めた1006石6斗が加増され、知行地は6千石となった。さらに寛永9年(1632)には、相模国三浦郡の三崎番所、走水番所の奉行を兼任した。両番所は「海の関所」と称され、三崎番所では上方に向かう上り船を改め、走水番所では江戸に入る下り船を改めた。
寛永9年(1632)6月20日、3代家光は2代秀忠の遺命により安宅丸の造船を忠勝に命じた。同11年(1634)伊豆国伊東(現静岡県伊東市)で安宅丸は建造された。安宅丸の外見は純日本的であったが、船体構造は洋式構造で長さ約47m、横幅約16m、深さ3mと当時日本最大の船であり、日光東照宮とともに将軍家の権威の象徴となった。この造船には、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力があったとされ、忠勝もまた、家康の命でおこなわれた西洋型造船時に相談役として協力した。翌12年(1635)、安宅丸は完成し、江戸にて回航し艤装をおこない、その後家光の観覧に忠勝は従った。安宅丸の姿を一目見ようと江戸中の人々が見学に訪れ、安宅丸は江戸の名物の1つとなった。
寛永14年(1637年)、忠勝は父母の菩提寺である見桃寺の僧文室祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に長光山陽岳寺(現東京都江東区深川2-16-27)を開創した。
忠勝は江戸において寛永18年(1641)、享年60歳で病没する。病名は不明である。江戸の本叡山本覚院(現東京都台東区上野公園。東叡山寛永寺本覚院)に埋葬されたとされるが、相模国三浦郡見桃寺にも墓標がある。法号は真珠院殿月峯宗心居士。
水軍としての活躍は忠勝の代で終わり、泰平の世が訪れる。忠勝は数々の功績により、従5位下、諸大夫に命じられ、左近将監を叙爵した。
また忠勝の妻、中田高心の娘は寛文4年(1664)11月15日江戸にて64歳で病没し、深川霊岸寺に葬られた。法号は天窓院殿清誉教運宝寿大姉。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井流2代目。父は向井兵庫頭正綱。母は長谷川三郎兵衛長久の娘。天正10年(1582)5月15日駿河国清水で生まれ、寛永18年(1641)10月14日江戸にて60歳で没する。
忠勝は慶長2年(1597)18歳の頃から、父正綱とともに2代将軍秀忠に仕えた。慶長6年(1601)には、相模国三浦郡内に知行地500石を拝領し、水主50人と将軍御座船国市丸を預かり、父正綱同様御船奉行となった。以後慶長15年(1610)、九鬼長門守守隆、久永源兵衛重勝らとともに淡路島に赴き、西国大名所有の500石以上の軍船を没収し、江戸湾と駿河湾へ回漕した。
忠勝の武勇は限りなく、慶長19年(1614)大阪冬の陣、および翌元和元年(1615)大阪夏の陣では、徳川水軍の一番槍として従者も付けず小船に乗り、単身敵船に乗り込み相手を海に突き落としたという。その戦功により、元和3年(1617)相模国三浦郡内に2千石が加増された。また、元和9年(1623)秀忠の上洛に従った。
父正綱没後の寛永2年(1625)、父の遺跡を継ぎ知行5千石、水主同心100名を預かることとなる。また、寛永3年(1626)、3代家光より朱印状を受け、相模国三浦郡内で26ヶ村4307石3斗、上総
国望陀郡内の3ヶ村575石1斗、同じく上総国周准郡大和村57石5斗の合計5千石、および新たに新開地を含めた1006石6斗が加増され、知行地は6千石となった。さらに寛永9年(1632)には、相模国三浦郡の三崎番所、走水番所の奉行を兼任した。両番所は「海の関所」と称され、三崎番所では上方に向かう上り船を改め、走水番所では江戸に入る下り船を改めた。
寛永9年(1632)6月20日、3代家光は2代秀忠の遺命により安宅丸の造船を忠勝に命じた。同11年(1634)伊豆国伊東(現静岡県伊東市)で安宅丸は建造された。安宅丸の外見は純日本的であったが、船体構造は洋式構造で長さ約47m、横幅約16m、深さ3mと当時日本最大の船であり、日光東照宮とともに将軍家の権威の象徴となった。この造船には、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力があったとされ、忠勝もまた、家康の命でおこなわれた西洋型造船時に相談役として協力した。翌12年(1635)、安宅丸は完成し、江戸にて回航し艤装をおこない、その後家光の観覧に忠勝は従った。安宅丸の姿を一目見ようと江戸中の人々が見学に訪れ、安宅丸は江戸の名物の1つとなった。
寛永14年(1637年)、忠勝は父母の菩提寺である見桃寺の僧文室祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に長光山陽岳寺(現東京都江東区深川2-16-27)を開創した。
忠勝は江戸において寛永18年(1641)、享年60歳で病没する。病名は不明である。江戸の本叡山本覚院(現東京都台東区上野公園。東叡山寛永寺本覚院)に埋葬されたとされるが、相模国三浦郡見桃寺にも墓標がある。法号は真珠院殿月峯宗心居士。
水軍としての活躍は忠勝の代で終わり、泰平の世が訪れる。忠勝は数々の功績により、従5位下、諸大夫に命じられ、左近将監を叙爵した。
また忠勝の妻、中田高心の娘は寛文4年(1664)11月15日江戸にて64歳で病没し、深川霊岸寺に葬られた。法号は天窓院殿清誉教運宝寿大姉。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
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