向井右衛門佐直宗
向井流3代目。父は向井左近将監忠勝。母は長谷川長綱の娘。寛永21年(1644)6月38歳で没する。(没年から計算し、慶長7年(1602)生まれ)
直宗は2代忠勝の2男であり、慶長19年(1614)8歳で2代秀忠に謁見し、御小姓組番士となった。また寛永7年(1630)6月25日3代家光の天地丸乗船のとき、父忠勝とともに従った。同9年(1632)8月14日御船手となり、水主同心30人を預けられ、同13年(1636)12月29日、布衣(6位)が許された。同17年(1640)には西国巡見使を命ぜられた。
寛永18年(1641)12月4日、父の遺跡を継ぎ5千石を知行し、残り千石を弟正方に分けた。さらに忠勝に預けられていた安宅丸、天地丸、数十船、およびに水主同心130人を引き継ぎ、自分の支配下にあった同心30人は正方に属させた。
忠勝のあとを継ぎ、御船手と走水奉行を兼任するが、寛永21年(1644年)6月に38歳の若さで死去し、父忠勝と同じく本叡山本覚院に埋葬された。直宗の墓標は相模国三浦郡見桃寺にもある。
同年(1644)12月25日、直宗のあとを直宗長男右衛門太郎直則が継ぐが、正保4年(1647)10月に早世し、向井流4代目は忠勝5男正方が継ぐこととなる。直則も同じく見桃寺に墓標がある。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井流3代目。父は向井左近将監忠勝。母は長谷川長綱の娘。寛永21年(1644)6月38歳で没する。(没年から計算し、慶長7年(1602)生まれ)
直宗は2代忠勝の2男であり、慶長19年(1614)8歳で2代秀忠に謁見し、御小姓組番士となった。また寛永7年(1630)6月25日3代家光の天地丸乗船のとき、父忠勝とともに従った。同9年(1632)8月14日御船手となり、水主同心30人を預けられ、同13年(1636)12月29日、布衣(6位)が許された。同17年(1640)には西国巡見使を命ぜられた。
寛永18年(1641)12月4日、父の遺跡を継ぎ5千石を知行し、残り千石を弟正方に分けた。さらに忠勝に預けられていた安宅丸、天地丸、数十船、およびに水主同心130人を引き継ぎ、自分の支配下にあった同心30人は正方に属させた。
忠勝のあとを継ぎ、御船手と走水奉行を兼任するが、寛永21年(1644年)6月に38歳の若さで死去し、父忠勝と同じく本叡山本覚院に埋葬された。直宗の墓標は相模国三浦郡見桃寺にもある。
同年(1644)12月25日、直宗のあとを直宗長男右衛門太郎直則が継ぐが、正保4年(1647)10月に早世し、向井流4代目は忠勝5男正方が継ぐこととなる。直則も同じく見桃寺に墓標がある。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
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