向井将監正盛
向井流5代目。父は向井将監正方。母は服部玄蕃頭冬次の娘。宝永2年(1705)11月15日60歳で没する。(没年から計算して寛永21年(1645)生まれ)
正盛は4代正方の長男で、承応3年(1654)7月、9歳で4代家綱に謁見し、寛文3年(1663)18才では(『向井流水法書』では16歳と記されている)で小姓組番士となった。
寛文7年(1667)、父正方の務めを見習うようになり、延宝2年(1674)9月、跡を継ぎ御召船奉行となり布衣を許された。
天和2年(1682)4月21日、上野国新田郡(現群馬県太田市)、下野国梁田郡(現栃木県足利市)内に400石を加増され、知行地は合計2400石となった。以後幕末まで向井家の禄高は2400石である。
天和2年(1682)9月18日、2代忠勝(正盛祖父)が寛永11年(1634)に建造した安宅丸解体を小笠原丹後守長定、鍋島帯刀正恭とともに命じられた。解体理由は建造から50年を経過し、多額の維持費を要すること、巨体のために隅田川での進退が自由にならず、無用の長物と化したことといわれている。
元禄12年(1699)11月御船手頭の職を辞し、「竹翁」と号し、宝永2年(1705)11月15日60歳で没し、江戸深川長光山陽岳寺に埋葬された。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井流5代目。父は向井将監正方。母は服部玄蕃頭冬次の娘。宝永2年(1705)11月15日60歳で没する。(没年から計算して寛永21年(1645)生まれ)
正盛は4代正方の長男で、承応3年(1654)7月、9歳で4代家綱に謁見し、寛文3年(1663)18才では(『向井流水法書』では16歳と記されている)で小姓組番士となった。
寛文7年(1667)、父正方の務めを見習うようになり、延宝2年(1674)9月、跡を継ぎ御召船奉行となり布衣を許された。
天和2年(1682)4月21日、上野国新田郡(現群馬県太田市)、下野国梁田郡(現栃木県足利市)内に400石を加増され、知行地は合計2400石となった。以後幕末まで向井家の禄高は2400石である。
天和2年(1682)9月18日、2代忠勝(正盛祖父)が寛永11年(1634)に建造した安宅丸解体を小笠原丹後守長定、鍋島帯刀正恭とともに命じられた。解体理由は建造から50年を経過し、多額の維持費を要すること、巨体のために隅田川での進退が自由にならず、無用の長物と化したことといわれている。
元禄12年(1699)11月御船手頭の職を辞し、「竹翁」と号し、宝永2年(1705)11月15日60歳で没し、江戸深川長光山陽岳寺に埋葬された。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
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