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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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『続隅田川とその両岸 上』豊島寛彰(としまひろあき)著 芳洲書院 昭和42年9月 のp153に「諏訪町河岸の水練場」って内容があります。
これは水練のはじめを書いてるようです。


諏訪町河岸の水練場
夏ともなれば、諏訪町河岸は水練場(すいれんば)となった。その歴史は古く、将軍家光が正保4年(1647)の6月9日、隅田川を船でここに来
て、近習、外様、御徒衆らの水練を上覧し、またその月の25日にもここに来て、堀田加賀守
を召し「こんごは毎年河岸に小屋をかけ、御徒衆の非番の者に泳ぎの稽古をさせるよう」と
命じたと「正保日記」が伝えている。
その後、毎年土用前から8月まで、諏訪町河岸には12ヵ所の水練小屋が出来、寛政年中(1789-90)からは毎日お徒行頭が小屋に出向いて監督をした。
このような歴史にはじまる水練は江戸時代はずっと続けられ、夏の風物の一つとなっていたが、それを受けつぎ明治時代から大正のはじめまでつづいていた。
大川べりには葭簀張りの小屋がずらりとならび、何々流、何流という旗が川風にはたはたとひらめいて、夏の訪ずれをつげると、河童どもが褌をさげて教習所に通った。当時はプールというものがなく、川全体が水泳場となったのである。
水泳着といっても、いまと違い、泳ぐ時は褌一本で泳ぎ、水着は泳がない時に着たもので、外を歩く時にだけ必要になるしろものであった。肌襦袢のような恰好の白木綿の水着は脊筋と袖のつけ根のぬい合わせのところをすこしあけてすき間を糸でつないでいた。
とにかく鎌倉や江之島まで出かけなくても隅田川で泳ぎが出来たので、金も、暇もいらないですんだ。それにつけても最近隅田川を「ごみだ川」と悪口されるのは残念でならないが、隅田川をそうしたのは、とどをつめればわれわれではないかと責任を感ずる。
隅田川のよき時代を知っている故老に、懐しい思い出を語ってもらうと、
駒形1丁目の井上正道翁は(ここに75年前から文房具店を開いている老舗のご主人)「水もきれいだったが空気もきれいで、空は澄み、水は澄み、この辺は住宅地にはもってこいの土地柄であった。
もう古い人も居なくなり商店では厩橋角の町田糸店と駒形どじょう、それにたくの店の3軒ぐらいでしょう。うちの前を入った駒形河岸には役者と2号さんの家が多く、つい先日、瀬戸内海に投身された市川団蔵さんはこの河岸に20年もいました。死ぬ前までです。曾我廼家五九郎さんの家もありました。震災前までは釣も出来ました……」と昔をかみしめるように語られた。
昔のようにきれいな水が流れ、空にもスモッグがなくなったら、これほどうれしいことはない。それを再現して、昔は「ゴミダ川」だったと冗談をとばせるようにしたいが、そう考えると「ゴミダ川」を見おさめておくのも今の中であろう。そして、ゴミダ川時代にめぐり合ったわれわれが、後にその思い出を子孫に語って聞かせる時もこよう。
 

原文の「正保日記」が見つからないです…。川で泳ぎたいです(中島)
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『古老が語る 江東区のよもやま話』から水泳記録を紹介します。
この本は昭和59年(1984)1月から昭和60年(1985)3月の間に、「古老」と称される人々から話を聞いたものをまとめた本になっています。
5人ご紹介します。

「古老」の名前・生まれ・職業、当時の住所が記されていたので、私もそのまま紹介します。
漢数字は読みにくいので、アラビア数字に直させて頂きました。
 
①日暮貞太郎さん
 明治36年12月19日森下町生
 玩具師
 石島在住
水練場の話
 両国の本所側には、百本杭っていって、杭がずうっと打ってあったんですが、その百本杭のほうに、伝馬船に櫓を組んだ水練場が4、5軒あったんです。それで、先生がついて、いくらいくらって金を取って教えたんですが、水府流ってのがはやってましたね。
 ですから、泳ぎ方なんてのも、今みたいに、のしですとか、かた抜き、両抜き手だとかいう流技でした。泳ぐときは、みんな白い揮で、色が変わるのは帽子だけです。級で帽子を色分けするのですが、1番最高は、黒い筋が3本入りましたね。それで、伝馬船から飛びこんだんです。泳げないのは、船の桟みたいなのにつかまって、バタバタやってましたよ。その時分は、アメンボウがいくらもいましてね。アメンボウの足取っちゃって、飲んだものです。そすっと、泳ぎが上手んなるなんていわれましてね。
 
【日暮さんは水府流のようです。向井流と同じで帽子の色や線の数でレベルが違ったようです。中島】

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図①、隅田川の水泳
 

 
②長谷川常吉さん
 明治43年2月10日亀戸町生
 タクシー運転手(もと都職員)
 亀戸4丁目在住
小鮒だます水練場
 中川の平井橋のところに、講武の永田水泳場、中川の海のほうに近寄った日立のところに、三枝というのがありまして、あたしは、三枝のほうにいきました。先生は、〝三枝〟っていう男親と伜がやっていて、あとはアルバイトだったと思います。そこの南側には、魚を育てて売ってた養魚揚がありました。当時は、ふつう水練場といってましたが、三枝のほうは〝小鮒だます水泳揚〟なんてもいってました。〝水都筑波の中川、開国素行養える、ここは永田の水練場〟って、もう片方を歌ったものです。水都は、水の都ですね。筑波山から、中川は流れてきているということです。それから、はっきり記億にないんですが、川に入っていっても、泳げないのは、すのこを下にも横にもおいて、箱のようにして、その中に入って、バチャバチャやらせましたね。
 
【永田流は水府流の流れの流派です。日本水泳連盟が認めた現存、日本泳法12流派の中には含まれません。「三枝」さんがどの流派の方かわからないので、調べてみたいと思います! 中島】
 

 
③村山隆さん
 明治40年12月20日亀戸町生
 区行政委員(もと区役所勤務)
 亀戸5丁目在住
百本杭の水練場
 水泳は、7歳からやったので、水泳教授の免状をもってますね。7つの時は、隅田川の柳橋の百本杭のところへ、稽古にかよったもんです。それで、2年目から、その練習場が中川の平井橋の下のところに移転したんです。当時の柳橋の水泳場っていうのは、土手から降りられるんです。水もきれいでしたし、きれいでないと許可にならなかったのです。ところが、隅田川の水がよごれて、水泳場がおかしくなったわけです。それで、「そろそろ移転しなければ」と先をみこして、こちらへ越してきたわけです。それで、あたしも2年目から、こっちへいった。中川のところは、永田水泳場っていうんですが、永田流ともいってました。隅田川クラブなんかがやる、3月10日の寒中水泳もやっぱりやりました。あたしは、水泳場では、1番古い組でしょうね。戦災でみんな散っちゃったし、今もう何人も残ってないんじゃないですか。
 
【百本杭の水練場…場所が特定できているので、何流だったかはわかるはず。調べてみます。ただ図②の飛び込みの型を見る限り向井流ではないと思われます。中島】

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図②、柳橋・百本杭の水練場
 

 
④関茂豊次さん
 明治40年5月25日亀戸町生
 自動車修理工場
 亀戸7丁目在住
水泳の話
 竪川は、川の水がきれいなのに、泳がせないんだ。だから、お巡りさんの目を盗んで泳ぐ。川のこっちが大島、向こうが亀戸。10間か12間あるから、泳いでいって、むこう岸につくと、向こうにわれわれみたいな子供がいて、「このやろう」と喧嘩になる。でも、お巡りさんには捕まんないよ。着物をかかえて、さっさと逃げてっちゃうもん。学校にいくのは、短い着物に袴だったから、家に帰ってくると、袴を脱いで、遊びにいっちゃうわけ。泳ぐ時も、さっと脱いで、猿股だけになって泳いで、お巡りさんがきたら、さっとかかえて逃げていくわけだ。捕まっても、「気をつけろ。死んじゃうぞ」っておどかされるぐらいなんだけど。当時、竪川は、葦があまりでかくならないけど、両側にところどころはえていた。だんだん地盤沈下するから、水が上がる。水が上がってくるからそうなるのかわからないけど、今度は護岸をこしらえて、葦がなくなってきたね。小学校の時分には、水がひくと泥がでちゃうから、ダボハゼぐらいはとったよ。
 
【1間が約1,8メートルなので、10間~12間は約20メートルくらいです。昔は色んな川で泳がれていたのがわかります。中島】
 

 
⑤山本清一さん
 大正2年5月18日
 鉄工所経営
 大島9丁目在住
水泳の話と水練場
学校では、荒川ができてから、ひと夏あすこに水泳にいくの。そんで、学校から帰ると、今度は、竪川で泳ぐわけ。流れがけっこうすごかったんだけど、今の六之橋の欄干の上から、流れにのって、飛び込んだんだ。交番が中之橋のところにあって、裸で泳いでいるうちに、お巡りさんに着物をぜんぶもってかれちゃうんだよね。交番にいかなきゃ、着物返してくんないから、みんな裸でもって、トコトコ並んで、お巡りさんにあやまって、着物もってくるんだ。そんで翌日あたり、またやるわけだ。自分が悪いことしてるって感じはないわけだよ。けっこう危ないこともみんなやってたけど、別に怪我しなかったね。
 それから、通運丸って船が、行徳までいってたんだ。そこへ、子供たちが泳いでおっかけるの。そうすっと、向こうの船の人が、縄を投げてくれるわけ。それにつかまって、ずーっとぶらさがっていって、適当な時に、「オーイ」ってんで、自分で手を離して戻って帰ってくる。そういうことまでしてたけど、それでどうこうってことは聞いたことないんだよ。大人もちゃんと縄だしてくれるから、いい気になっていくわけよ。あの時分は、大人がそうやって、よく遊ばしてくれるようなもんだ。それから、小松川橋のほうの小さい橋に、水練場ってあったの。教師が何人かいる。川にヨシズ張りみたいの出して、そっから降りて、泳ぐんだ。級がいろいろあってね。最後の試験では、川を横切って泳ぐわけだ。
 
【隅田川から行徳に行くのが当時の船の水路だったようです。こちらの水練場も何流だったか調べてみます。中島】

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図③、水練場
 
 
『古老が語る 江東区のよもやま話』江東ふるさと文庫⑥ 東京都江東区総務部広報課 昭和62年12月
 ①p59、②p60、③p61、④p62、⑤p63、図①60、図②p62、図③p63引用
『古老が語る 江東区の町並みと人々の暮らし〈上〉』から水泳記録を紹介します。
この本は昭和59年(1984)1月から昭和60年(1985)3月の間に、「古老」と称される人々から話を聞いたものをまとめた本になっています。
今回は、4人紹介のその②です。

「古老」の名前・生まれ・職業、当時の住所が記されていたので、私もそのまま紹介します。
漢数字は読みにくいので、アラビア数字に直させて頂きました。
 
IMG.jpg









 
①田中浩治さん
 明治44年12月9日御船蔵前町生
 染物業
 新大橋2丁目在住
水練場
 当時は、川の水きれいだったですよ。あたし、ここで泳いだんですから。ここには、あの、水練場があったんですから。隅田川、新大橋渡った左っ側に。そこに幾つも水練場があったですよ。われわれは、そこ行っちゃ、水練、やってたんだ。
 水練場、お金取りましたね、やっぱり。月謝ってって、あのね、幾らか取られた覚えあります。
 師範が、水糸で編んだ白いあれを着てね、黒の帽子をかぶってね、ええ。で、それがいすに腰かけて、見てるんですよ。で、ひと月ならひと月あれすっと、木の札をくれたんです。
 級、ちゃんとありましたよ。黒筋1本、それから2本、3本なって、今度は、赤筋1本。次はね、赤筋2本、3本。それから、今度は真っ赤んなんですよ。真っ赤んなっと、もう師範ですからね。あたしは、真っ赤な帽子でしたよ。その上は、今度は黒かなんか、真っ黒んなるんじゃないかなあ、ええ。あたしの水練場は、〝向井流〟なんて、こう、のぼりみたいなの立ってましてね。あたしが1年か2年じゃなかったですか、あっちに移ったんですよ、月島へね。
 
【田中さんは向井流を習われてたようです! 帽子の様子によって泳ぎのレベルが違ったことがわかります。中島】


 
②多田實さん
 明治40年2月13日東大工町生
 もと会社員
 高橋在住
夏は川で泳ぐ
 夏休みになると川に来て泳ぐ。小名木川、こんなに広くなかったんだよ。6年生ぐらいになると、わんぱくだったら、こっち側から向こう側に石が投げられた。それくらいだったんだよ。
 この川はね、紀長さんのもう少し先の所に、あっちこっち階段があってね、川へ降りられたんだ。船から物を上げる関係でね、荷上げ用の共同あげ場みたいなのが、いっぱいあったんです。大きな洗い張り屋があってね。染めゆかたを川で洗い流しすんの。
 さらしを染めたやつを流して、竹の棒にしばりつけといて、流れないようにしといて、1枚1枚洗うわけだ。5月ごろになるとね。竹の捧で、チャッ、チャッてたたいて、洗う。うまいもんだよ。水が深ければ船の上でやんの。浅ければ川の中へ入ってやる。船はたまにしか通らないし、ちっともあぶなくないよ。波があるわけじゃなし。波のあるのは、両脇に車がついた蒸気が通るときだけ。これは番所橋からずーっと新川へ出て、浦安、行徳ぬけて、銚子へ行く。それが波を立てる。払ら波が楽しみで泳ぎに行くの、この川っぷちに。さもなきゃ川なんて、波なんかないもの。普通の川だったらおもしろくない。
 6年生ぐらいのときは、海水浴場っていうと浜町だったから。向井流土屋っていうところへ私ら行ってたんだ。向こう岸で。深川の教育会が初めて水練場を作ったのは、今の芭蕉庵の裏、あそこに出来たのが始まりだよ、深川の。それまでは、どこでもみんな勝手に泳いでたんだ。
 この川の端っこに、隅田川へ出る右側に、水上署があった。その水上署が、「泳いじゃいけない」って、たまに来るんだよ。それで着物持っていっちゃうんだ。だからしょうがないから、隠しとくんだよ、東京市の消毒所の中へ。隠しといても、持っていかれちゃうんだ。おれたちが向こう側からこっち来て、川っぷちでカニとったりなんかして遊んでると、船をこっちのほうへ置いといて、消毒所の中へ入って着物、持っていってしまう。夏休み終わって学校へ行くと、ちゃんと先生の机の上にのっけてあるの。
 家ではおこられるよ。おふくろにぶたれる。だからおふくろに見つかる前に、うちの裏からそ
―っと入って、着物着てくるけどね。さもなきゃ、自分のうちから、はだかで行っちゃうよ。川っぷちまで、たいしたことないもの。まあ、おやじやおふくろなんて、うちにいなかったもんね、働いて忙しかったから、みんな。子供なんて、かまっていられないよ。
 
【多田さんは向井流土屋派だったようです。水上のお巡りさんとの攻防が楽しく、また、夏休み明けの学校で先生の机に持っていかれてしまった、自分の服がある。とても楽しい攻防戦だったのだと思い、正直羨ましいです。当時の子供たちが、いかに水泳に慣れていたか、また、達者であったかが伺えます。中島】


 
③長濱清さん
大正3年3月31日黒江町生
もと中華料理店コック
亀戸3丁目在住
泳ぎは達者
 小学校は明治第1小学校、あれは万年町だろう、昔の。木造の3階建ては東京で1軒しかなかったんだ。で、男の子と女の子と、別だったの。校長も別だったの。3階に上がると富士山が見えた。
 その時分に水泳に通ってたんだ、おれは。門前仲町から月島までね、電車が通ってた。柳島から門前仲町で止まって、門前仲町でいったんきれて、月島まで行った。
 前が運転手、後が車掌なんだよ。停留所を出ちゃうとね、車掌はひまだから前へ行くんだよ。追っかけてってね、電車、タダ乗るんだよ。停留所くると降りちゃうんだよ。そうやって月島に通ったもんだ。
 あの時分の川、きれいだったからね。着物をぬいで、ハダカで泳いでるんだ。その時分〝水上〟っていうのが来るんだよ。水上のお巡りさん。ボートで……。そうすると反対側に上がっちゃうんだよ、おれたちは。お巡りが追っかけてくる、上まで上がって来たなあ、と思うと、飛び込んで、今度は向こう側へ泳いで行って上がっちゃうんだ。それから、向こうから水上来たなあと思うと、炭俵流れてきたら、炭俵かぶってさ、泳いでるんだよ。
 いたずらだったからね。水泳は達者だった。月島通って、もう、昔の古流だけど「しんでん流」だから。しんでん流の、小学校のときに、東京市の助教師を取ったんだ。その時今に12キロ泳いだんだ、六年生のときに。
 昔の水泳っていうのは、丸太ん棒つかまらしておいて、丸太ん棒を動かしたの。いやおうなしに泳ぐようになっちゃうんだ。スパルタだったから。ほんで、ふんどしだったから、ふんどしを持って、手と足をこうやって放すんだから。いやおうなしに泳げるようになっちゃう。
 
【長濱さんは神伝流。当時の隅田川には多くの流派が水練場を開き、修練を行っていたことがわかります。中島】


 
④古山鈴
 明治43年11月21日八丁堀生
 さくら鍋屋
 門前仲町1丁目在住
夏は海水浴
 夏は幕張行きました。海水浴です。この辺の子は月島、月島の勝鬨の4つ角のとこ、あそこ海でしたからね、みんなで海水浴行きましたよ。大学生やなんか、ちょうど今の海水浴場みたいに、アルバイトみたいに。アルバイトという言葉はなかった。海水浴場へ働きに来て、土人になったり、仮装行列なんかして、楽しかったですよ。
 で、そこへ行って泳ぎ教えてもらったりで。その海水浴場ですが、おでんだの、カレーライスだのあるでしょう。お汁粉食べたりして夕方帰ってくる。当時、おでんとかの値段5銭ぐらいですか。だから20銭もお母さんにもらって行けば、1日遊べるわけ。そいで電車が通らないときは、乗合バスがあったんです。タクシーが、乗合自動車5人ぐらい乗って……。男の子でお金のない子は歩いて行く子もいましたね。そのうち電車が出来てから電車で終点まで行って、そして泳ぐんです。女の子はこう、海水着着て、おシャレさんしてねえ。楽しかったですね。だからこの辺の子、泳げない子、女の子でもいなかったですね。先生が、今みたいにああいう難しい泳ぎしないけど、平泳ぎとか、のしとか、あんなの教えてくれて。
それから八幡様で遊んだの。あそこの裏に富士山の山があったんです。お富士さん。そこが何年に取り崩したか、戦後こわしたか、ちょっと分からないんですけど、いい遊び場でした。簡単に登れるんですけどね、何合目だ、なんていって。裏から登っていったり、表からいったりしてね。
 そんな遊びの間には、お稽古に行かねばならないでしょう。三味線とか踊りのお稽古に行くのいやなの。遊びに行きたくて、だから行ったふりして休んで遊んじゃうの。

【こちらは女性の方です。女性が水泳を始めるあたって、「女性が肌を晒すなんて!」と色々世間の荒波があったそうですが、古山さんの時には女性も一般的に海水浴を楽しんでいたのがわかります。「オシャレな水着」がどのようなものであったのか気になります。あと、おそらく古山さんが言われてる「平泳ぎ」は外来4泳法の平泳ぎではなく、日本泳法の平泳ぎ(平游ぎ)であると思われます。中島】

『古老が語る 江東区の町並みと人々の暮らし〈上〉』江東ふるさと文庫④ 東京都江東区総務部広報課 昭和62年12月
地図p40、①p68、②p114、③p175、④p196引用

『古老が語る 江東区の町並みと人々の暮らし〈上〉』から水泳記録を紹介します。
この本は昭和59年(1984)1月から昭和60年(1985)3月の間に、「古老」と称される人々から話を聞いたものをまとめた本になっています。
今回は、3人紹介のその①です。
その②はそのうちに^^

「古老」の名前・生まれ・職業、当時の住所が記されていたので、私もそのまま紹介します。
漢数字は読みにくいので、アラビア数字に直させて頂きました。
 
①岡島啓造さん
 明治36年8月15日茨城県生
 焼鈍業
 東砂7丁目在住
 流れの速い小名木川
 小名水川ってところは急流でしたね。上げ潮のときは、ものすごい勢いで流れてくる。船という船は、みんな両岸、止まっちゃうんです。通るのは、通運丸って船ぐらいなもんですわねえ。通運丸って、両脇に水車のついた船ですね。あれが走るくらいなもんで、上げ潮のときは船は絶対に通らなかったですね。
 またそこは、よく人がおぼれて死んだです。あんまり流れが速いんでね。私はそこでもって、よく水泳をやってましたね。一ぺん、やっぱり死にそこなったですね。上げ潮に泳ごうとしたんですよね。両脇に船かある、あいたと思って泳いだんですが、もう、流れが速くて、もとのところへ戻れないんですよ。こりゃ、いくら努力してもおれの泳ぎじゃ戻れないからと思って、流れに任せて高橋のほうへ流されていった。ちょうど船のないところがあって、助かったですね。あそこは水死体の多いところでした。
 
【岡島さんが川でよく泳がれていたのがわかります。小名木川が危険な川だったようですね。中島】 


 
②石川緑郎さん
 大正5年12月31日八名川町生
 米穀商
 新大橋2丁目在住
 遊び――空き地・川
 深川って、人情味ありますよね。うちのおふくろなんかも、長火鉢置いて、近所のおばさんたちが、年中入り込んでいましたね。
 子供のころは、メンコやベーゴマやったり、そこらの空き地へ行くと、いろんなガラクタが、金庫屋さんの古くなったやつだとかね、その中へもぐったり、登ったりして、チャンパラごっこやったり……。
 川でもけっこう泳ぎました。払なんか隅田川で水泳覚えたんだから。私の兄の小さい時分には、隅田川に水泳揚があったそうですよ。水練場といったんですね。〝何とか流〟なんていってね、抜き手で泳ぐね。甲冑をつけたり、刀をね。あんな水泳を教えていたんですよ。川の水が汚くなったっていうんで廃止になっちやった。私の小学校2、3年ごろじやないですか、震災後の。
 川が汚くなったっていってもね、今、運送屋さんになってるけど、あそこに、大きな空ビン屋さんがあったんです。そこから、ちょうど、川に入るのに具合がいいんですよ。川っぷちに着物脱いで、置いといて、あのほら、赤フンでね。それで交番のお巡りさんが、「コラッ! そこで泳いじゃ、いけないんだぞ!」なんて。「着物、持ってっちゃうぞ」なんてね。それでアワくってね。向こう岸まで、浜町岸まで泳ぎついてね。あんで泳ぎに自信がついたんだよね。
 引き潮んなったときは、掘ればゴカイなんか、けっこう缶詰の缶一杯ぐらいとれましたからね。こんど上げ潮になったときに釣りをする。けっこう釣れましたよ。高いさおなんか、買ったことないですから。竹屋さんに行って、1銭か2銭出して、もちざおのね。おふくろに縫い糸もらって、それで針金の先を一生懸命とんがらかしてね、作ったんですよ、自分で。けっこう、2、30センチくらいの、大きな、オボコみたいな魚がね、とれましたよ。
 
【石川さんがなんの流派を泳いでいたのかわからないのが残念です。
石川さんが大正5年(1916)生まれということは、隅田川の水が汚くなり水練場が廃止になったのは石川さんが小学校2、3年生の頃、大体大正15年(1926)くらいだと予想されます。
褌で泳いだり、お巡りさんに追いかけられたり楽しそうですね。中島】 


 
③遠藤藤吉さん
 明治41年4月22日西六間堀町生
 ガソリンスタンド経営
 新大橋3丁目在住
 共同水道の時代
(前略)
川の水はきれいだった。私は知りませんけど、親なんかが若いころは、あの、あれがとれたっていいますよ、あの、白魚が。明かりをつけてね、網
でしゃくうんだそうですよ、明かりに寄ってきた白魚が、みんな、網、入るんですよね。ええ。それほど、きれいだったんですよね。
 泳ぎは、裏が川でしたからねえ、その、六間堀の……。ええ、投げ込まれるくらいでしたから。子供んときに、しもでしばられて、廊下から川へ、放り込まれるようにして、覚えたんです。ええ。水上(警察)には、ずいぶん追っかけられました。もう、真夏のことですからね、シャツ、さるまた、かかえて逃げ回るんですよ。ええ。また水上が、けっこう根気よく追っかけて来るんですよね。こう、ボートで漕いで来ましたからね。巡査が一人乗りましてね、うしろへ、こう漕ぎ手が……。そいで川を見まわってたの。だから、見てて、行っちゃうと、また飛び込んで入るというようなこと、やっとりました。
 少し泳ぎが達者んなると、みんな大川のほうへ行って。ええ。で、あまり水死人なんてことは、聞かなかったですよ、そのときには。けっこう、みんな、地元の者は、泳ぎが達者んなりましたからね。
 そのころは、夜んなっと風情があったもんですよ。柳橋あたりから、屋形でもって、芸者さん
乗っけて……。旦那衆がその船で、一杯やってましたからね。ええ。
 そうかと思うと、両国の橋の手前に、船料理がありましてね。川の中に船を着けて、そこが、料亭んなってたの。で、そこへも芸者さんがけっこう入ってましてね、夜んなっと、若い物が、ボートで漕ぎ出してって、水ぶっかけたり、悪さしたもんですよ。
 
【 前半は共同水道の話だったので省略させて頂きました。
遠藤さんも水上警察との追いかけっこを経験されたようでうすね。
悪さができる余裕があるということは、泳ぎが上手な証拠です。中島】
 
 
『古老が語る 江東区の町並みと人々の暮らし〈上〉』江東ふるさと文庫④ 東京都江東区総務部広報課 昭和62年12月
①p43、②p54、③p57 より引用

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中島
性別:
女性
趣味:
寝ること食べること泳ぐこと読むこと
自己紹介:
向井流の泳ぎを習いながら勉強中
好きな型は「平掻」
諸抜手が難しい…
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