向井将監正直
向井流9代目。父は松平因幡守康真。生没年不詳。(おそらく明和5年(1768)生まれ)
正直は松平因幡守康真の7男であったが、8代政香の養子になり「将監」の名を継いだ。
寛政3年(1792)3月、24才のとき11代家斉に謁見した。同年(1792)8月28日から御船手見習を務め、養父政香ともに向井家譜系譜の整理をおこなった。また、養父政香とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。
寛政10年(1798)、御船手組の者の水泳上覧が浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)でおこなわれ、正直は小姓組、小納戸衆とともに馬川渡(水馬)を披露した。
文化4年(1807)3月正直は、6代正員が流儀が整え、正直が教義が整えた『向井流水法秘伝書』を編纂した。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理し游法、口訣、水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となった。これには初代正綱の父正重が武田信玄に求められ、永禄3年(1570)2月伊丹大隈守康直とともに船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記された。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により正直の下に入門した。このとき正直は病のため、息子正通が指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木啓三『水心』3号 2010.5.27 会津向井流水法会
向井流9代目。父は松平因幡守康真。生没年不詳。(おそらく明和5年(1768)生まれ)
正直は松平因幡守康真の7男であったが、8代政香の養子になり「将監」の名を継いだ。
寛政3年(1792)3月、24才のとき11代家斉に謁見した。同年(1792)8月28日から御船手見習を務め、養父政香ともに向井家譜系譜の整理をおこなった。また、養父政香とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。
寛政10年(1798)、御船手組の者の水泳上覧が浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)でおこなわれ、正直は小姓組、小納戸衆とともに馬川渡(水馬)を披露した。
文化4年(1807)3月正直は、6代正員が流儀が整え、正直が教義が整えた『向井流水法秘伝書』を編纂した。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理し游法、口訣、水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となった。これには初代正綱の父正重が武田信玄に求められ、永禄3年(1570)2月伊丹大隈守康直とともに船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記された。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により正直の下に入門した。このとき正直は病のため、息子正通が指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木啓三『水心』3号 2010.5.27 会津向井流水法会
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