向井将監正通
向井流10代目。父は向井将監正直。寛政8年(1796)生まれ。没年不詳。
正通は正直の長男であり、文化12年(1815)見習になり、文政4年(1821)9月家督を相続した。
文政元年(1818)9月、両国橋下で馬川渡(水馬)を11代家斉に披露した。また文政9年(1826)、11年(1828)、12年(1829)、天保13年(1841)には浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)で御船手組の者が水泳を披露、さらに天保12年(1840)7月、徒士、水主の水泳を深川安宅御蔵前(現東京都江東区新大橋)で披露した。天保12年(1840)7月のものでは、12代家慶が天地丸に乗り、徒士、水主の泳ぎを見た。徒士、水主は、抜手雁行、折紙(泳ぎ不明)、水筆(水書)、竟泳(不明)、西瓜取(不明)の泳ぎなどを披露したという。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により父正直の下に入門したが、正直は病であったために正通がその指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。また嘉永元年(1848)8月、江戸湾防備のために房総海岸富津(現千葉県富津市富津)に宿陣していた会津藩士は、富津、竹岡港間の海上約16㎞を8時間で遠泳した。このときの記念額は現在富津市の文化財として木更津上総博物館に保存されている。
安政元年(1854)大筒船打ち(不明)を披露、また同年(1854)12月、海船、押し送り船を建造した功で褒賞を賜った。
安政3年(1856)3月、幕府は築地に講武所を設け、旗本御家人の子息、厄介の武術習得に力を入れた。翌年(1857)4月には、同所に軍艦操練所が設置され、正通およびに他の御船手も水泳世話役を命じられた。
安政4年(1857)7月、佐倉藩主堀田備中守正睦の家臣、水術師範笹沼龍助は江戸出府のとき、嘉永6年(1853)8月、師である会津藩士高津助之進から許された『向井流水法秘伝書』を持参し正通を訪れた。正通に敬意を表するとともに秘伝書の検閲を願った。このことは持参した秘伝書の表紙に朱筆で記されているという。
正通の長男吉次郎正民は文政11年(1828)2月11代家斉に謁見したが、天保4年(1833)7月に病死した。また、正通2男源次郎正業は翌年(1834)5月家斉に謁見し、弘化2年(1845)7月父正通の務めを見習うようになり、12代家慶が天地丸に乗船し浜御庭に訪れたときには父正通の代役を務めたが、嘉永6年(1853)3月、37歳で病死した。
正通には長男正民、2男正業以外子がいなかったため、同年(1853)12月、20歳になる鷹匠頭戸田五介3男金三郎を迎えて養子とした。この金次郎が向井将監正義となり、向井流11代目を継いだ。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
向井流10代目。父は向井将監正直。寛政8年(1796)生まれ。没年不詳。
正通は正直の長男であり、文化12年(1815)見習になり、文政4年(1821)9月家督を相続した。
文政元年(1818)9月、両国橋下で馬川渡(水馬)を11代家斉に披露した。また文政9年(1826)、11年(1828)、12年(1829)、天保13年(1841)には浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)で御船手組の者が水泳を披露、さらに天保12年(1840)7月、徒士、水主の水泳を深川安宅御蔵前(現東京都江東区新大橋)で披露した。天保12年(1840)7月のものでは、12代家慶が天地丸に乗り、徒士、水主の泳ぎを見た。徒士、水主は、抜手雁行、折紙(泳ぎ不明)、水筆(水書)、竟泳(不明)、西瓜取(不明)の泳ぎなどを披露したという。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により父正直の下に入門したが、正直は病であったために正通がその指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。また嘉永元年(1848)8月、江戸湾防備のために房総海岸富津(現千葉県富津市富津)に宿陣していた会津藩士は、富津、竹岡港間の海上約16㎞を8時間で遠泳した。このときの記念額は現在富津市の文化財として木更津上総博物館に保存されている。
安政元年(1854)大筒船打ち(不明)を披露、また同年(1854)12月、海船、押し送り船を建造した功で褒賞を賜った。
安政3年(1856)3月、幕府は築地に講武所を設け、旗本御家人の子息、厄介の武術習得に力を入れた。翌年(1857)4月には、同所に軍艦操練所が設置され、正通およびに他の御船手も水泳世話役を命じられた。
安政4年(1857)7月、佐倉藩主堀田備中守正睦の家臣、水術師範笹沼龍助は江戸出府のとき、嘉永6年(1853)8月、師である会津藩士高津助之進から許された『向井流水法秘伝書』を持参し正通を訪れた。正通に敬意を表するとともに秘伝書の検閲を願った。このことは持参した秘伝書の表紙に朱筆で記されているという。
正通の長男吉次郎正民は文政11年(1828)2月11代家斉に謁見したが、天保4年(1833)7月に病死した。また、正通2男源次郎正業は翌年(1834)5月家斉に謁見し、弘化2年(1845)7月父正通の務めを見習うようになり、12代家慶が天地丸に乗船し浜御庭に訪れたときには父正通の代役を務めたが、嘉永6年(1853)3月、37歳で病死した。
正通には長男正民、2男正業以外子がいなかったため、同年(1853)12月、20歳になる鷹匠頭戸田五介3男金三郎を迎えて養子とした。この金次郎が向井将監正義となり、向井流11代目を継いだ。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
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