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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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海運(かいうん)(ばし)(あと)
名称 海運橋親柱
住所 東京都中央区日本橋1-20
東京都中央区日本橋兜町3
調査日 平成23年(2011)11月8日

橋の東詰に向井将監(むかいしょうげん)(ただ)(かつ)の屋敷があり、()(ふな)()(かしら)は幕府の海軍で、海賊衆とも称したため「将監(しょうげん)(ばし)」、「海賊(かいぞく)(ばし)」と呼ばれた。
橋は明治維新後に「海運(かいうん)(ばし)」と改称された。関東大震災(大正12年(1923))で橋が破損したため、昭和2年(1927)鉄橋に架け替えられたが、昭和37年(1662)撤去され、2基の親柱のみ現存する。

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 [海運橋親柱東側(日本橋兜町)]

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 [海運橋親柱西側(日本橋)]

日本橋1丁目側の親柱には中央区教育委員会による由来碑がある。その内容を紹介する。

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 [海運橋親柱由来碑]

海運(かいうん)(ばし)親柱
所在地 中央区日本橋1-20先
      日本橋兜町3先
 海運橋は、(かえで)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同8年(1875)、長さ8間(約15m)、幅6間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。         
 石橋は、関東大震災で破損し昭和2年(1927)に架け替えられました。この時、2基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年(1962)撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
平成6年(1994)3月
中央区教育委員会

 
小池章太郎編『江戸砂子』に海運橋のことが記されている。以下、引用する。
海賊(かいぞく)
又、将監橋、又、石橋とも云。青物町より阪本町渡す。むかし東はしづめに海賊御奉行向井将監殿のやしきあり。まへかたは石はし也。
引用以上。
 また、文久3年(1863)再刻の尾張屋清七版「日本橋南之絵図」には、橋の名前は「海賊橋」と記されている。
 
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