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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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 向井(ひょう)(ごの)(かみ)(まさ)(つな)
 向井流初代。父は向井伊賀守正重。母は長谷川伊勢守長憲の娘。弘治2年(1556)に生まれ、寛永元年(1624)3月26日江戸にて69歳で没する。
 天正7年(1579)9月19日、持船城での戦いで父正重と義兄政勝が亡くなり、正綱は向井水軍を継ぐこととなった。このとき正綱は清水の袋城(ふくろじょう)(現静岡市清水区袋町)に居たため、徳川軍との戦いを免れた。 
天正8年(1580)3月、駿河国浮島原(うきしまがはら)(現静岡県沼津市)にて北条水軍との海戦がおこなわれた。北条水軍の船は武田水軍の2倍におよび、武田水軍は圧倒的な船軍差で、勝頼は敗戦を予想し、水軍らに船を乗り捨て陸に上がるように命じた。しかし、正綱はそれを拒み、向井水軍を率いて単身北条水軍に突入。主だった敵船を打ち取り、奪取するなど正綱の奮闘によりこの海戦の敗戦は免れた。勝頼は大いに喜び、正綱はこの軍功により勝頼から感状を賜った。『小浜文書』[参5]によると、同9年(1581)3月に伊豆久竜津(現在地不明)、6月に伊豆中小浦(現在地不明)で向井水軍が戦ったことがわかっている。同10年(1582)3月11日、勝頼が天目山で自刃し、武田家は水軍を活用できず滅亡した。正綱は武田家滅亡後伊勢に隠遁した。
武田家滅亡後、伊勢に隠遁したが正綱だったが、武田水軍時の優秀さ惜しんだ徳川家康は、本多作(ほんださく)左衛門重次(ざえもんしげつぐ)を使わして正綱を徳川水軍に招いた。その招きにより正綱は、天正10年(1582)7月九鬼長門守守隆(くきながとのかみもりたか)小浜伊勢守景隆(おばまいせのかみかげたか)間宮造酒丞信高(まみやみきのじょうのぶたか)千賀孫兵衛重親(ちかまごべえしげちか)とともに徳川水軍の麾下に入り、強力な徳川水軍を構成した。
北条水軍との戦いの功により、天正18年(1590)8月家康の江戸入国の際、正綱は相模国三浦郡、上総国望陀郡(まくだのこおり)、周防郡などに知行地2千石を受領し、甥の向井五郎左衛門政良、同じく権七郎某、権兵衛某(五郎兵衛)、およびに渡辺五郎作某らを隊下とし、船手同心50名を配下に持ち、家康の御座船国市丸を預かる船出奉行となった。
また、文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵時、家康は渡海することなく肥前国名護屋城(なごやじょう)(現佐賀県唐津市)に陣を構えた。このとき正綱は国市丸で家康に付き従った。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って上杉氏討伐に向かったが、中途より江戸に帰り、息子忠勝(ただかつ)とともに水軍を率いて戦いに参加するべく海路を西に向かった。しかし、悪運にも風雨に遮られて船は進まず海上に日を送り、船を捨て陸路を急いだが、遂に合戦には間に合うことができなかった。正綱は家康の機嫌を大層損ね、遅参の理由を述べるための面会も断られた。しかし、今までの正綱の功績が認められ、家康は正綱との面会後に正綱を許した。
正綱は相模国三浦郡三崎(現神奈川県三浦市白石町、泰平山最福寺(さいふくじ)付近とされる)に屋敷を構え、船手奉行として息子忠勝と三浦三崎(みうらみさき)および走水(はしりみず)の海上警備に当たった。
慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社の第8回東洋航海船隊司令官ジョン・セーリスが駿府にいた家康に拝謁した際には、本多正純(ほんだまさずみ)とともに案内役を務めるなど家康の信頼は厚かった。
大阪冬の陣(1614)、夏の陣(1615)では、息子忠勝は水軍を率いて出兵したが、正綱は三崎に留まり江戸湾防備に勤めた。
元和4年(1618)、または寛永元年(1624)、後の三崎番所の前身となる三崎船改の御番を命じられた。その後、寛永9年(1632)に御船手頭が制定され正綱は、小浜伊勢守景隆(おばまいせのかみかげたか)間宮造酒丞信高(まみやみきのじょうのぶたか)千賀孫兵衛重親(ちかまごべえしげちか)とともに徳川船手四人衆となった。
 寛永元年(1624)3月26日江戸にて病没し、69歳で相州三崎見桃寺(現神奈川県三浦市白石町19-2。紫陽山見桃寺(けんとうじ))に葬られた。法名は天慶玄龍居士。また正綱の妻、長谷川三郎兵衛長久の娘も寛永4年(1627)3月20日、正綱と同じく見桃寺に葬られた。法号は霊雲院殿桃室周恩大姉。




参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所 
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
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