向井伊賀守正重
向井正重助兵衛尉伊賀守。
向井流初代正綱の実父。永正16年(1519)に生まれ、天正7年(1579)9月19日持船城(現静岡市用宗)にて61歳で没する。
正重は弘治年中(1555~1558)、駿河国持船城の城主であった朝比奈駿河守の招きにより今川義元に属し、今川水軍の将となった。正重が今川水軍だった時代の記述はあまりなく、義元没後は武田信玄に仕えることとなる。義元没後、正重は一時郷里に帰っていたが、武田信玄が山縣三郎兵衛昌景を使わして正重を招いたため、元亀3年(1572)2月6日武田信玄に属し、武田水軍の将となった。また、正重は度々武勇の誉れがあるとして、天正5年(1577)興国寺城(現静岡県沼津市根古屋)の武田勝頼より感書を給わった。
永禄3年(1570)2月、正重は信玄の求めに応じ、伊丹大隈守康直と共に甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」を編纂した。これは船戦を主とした内容で、船大将の心得を説いており、後の向井流水法の一部をなすものとなった。
天正7年(1579)9月19日、持船城で松平家忠および牧野康成が率いる徳川軍との戦いがおこなわれた。徳川軍は1万にもおよび、正重は奮闘したが力及ばず自害した。正重の首は尾崎半平が賜ったとされる。この持船城の戦いで、正重養子政勝も正重とともに命を落とした。政勝42歳であった。正重没後、向井水軍は正重実子正綱が継ぐこととなる。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
向井正重助兵衛尉伊賀守。
向井流初代正綱の実父。永正16年(1519)に生まれ、天正7年(1579)9月19日持船城(現静岡市用宗)にて61歳で没する。
正重は弘治年中(1555~1558)、駿河国持船城の城主であった朝比奈駿河守の招きにより今川義元に属し、今川水軍の将となった。正重が今川水軍だった時代の記述はあまりなく、義元没後は武田信玄に仕えることとなる。義元没後、正重は一時郷里に帰っていたが、武田信玄が山縣三郎兵衛昌景を使わして正重を招いたため、元亀3年(1572)2月6日武田信玄に属し、武田水軍の将となった。また、正重は度々武勇の誉れがあるとして、天正5年(1577)興国寺城(現静岡県沼津市根古屋)の武田勝頼より感書を給わった。
永禄3年(1570)2月、正重は信玄の求めに応じ、伊丹大隈守康直と共に甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」を編纂した。これは船戦を主とした内容で、船大将の心得を説いており、後の向井流水法の一部をなすものとなった。
天正7年(1579)9月19日、持船城で松平家忠および牧野康成が率いる徳川軍との戦いがおこなわれた。徳川軍は1万にもおよび、正重は奮闘したが力及ばず自害した。正重の首は尾崎半平が賜ったとされる。この持船城の戦いで、正重養子政勝も正重とともに命を落とした。政勝42歳であった。正重没後、向井水軍は正重実子正綱が継ぐこととなる。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所
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