長光山陽岳寺
陽岳寺は2代忠勝が、寛永14年(1637年)見桃寺(現神奈川県三浦市白石町19-2。紫陽山見桃寺)の僧文室祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に開創した臨済宗妙心寺派の寺院である。
[長光山陽岳寺]

[陽岳寺(向井忠勝墓)由来碑]
陽岳寺すぐの歩道に陽岳寺の由来碑がある。由来碑には、陽岳寺向井忠勝墓の写真と忠勝について述べている。内容は以下のとおりである。
長光山陽嶽寺 深川富岡橋の北詰横小路にあり。妙心寺派の禅宗にして、本尊観音大士の像は恵心僧都の作なりと云ふ。向井氏忠勝開基の精舎にして、文室和尚を開山とす。(陽嶽は向井氏の法号なり。)和尚は相州三崎見桃寺白室和尚の法弟なり。(見桃寺も領主向井氏布金の道場なりといふ。)
出山の釈迦如来像(立像3尺ばかりあり、極めて妙作なり。坪内大隅正勝といへる人、当寺文室和尚の需に応じて彫刻せしよし、寺記にみえたり。)2代目英一蝶の墳墓(当寺卵塔の中にあり。碑面に機外道輪信士元文2年丁巳(1737)閏11月12日と記してあり。通称は長八、名は信勝といふ。)
以上、引用。

[向井忠勝墓]
忠勝の墓は陽岳寺内にあり、当然の訪問であったがお寺の方に快く案内していただいた。また、撮影の許可をいただいた。
墓石には向井家の人々の名前、法号が刻まれている。
向かって前面には3人の女性の名前が刻まれる。
「■■■■■自春大姉 7世向井正眞娘
光寿院園巌常明大姉 同
妙智院新月霊性大姉 同」
7代「向井正眞」の娘3人であると刻まれているが、「向井正眞」なる人物は不明である。
向かって右側面にも3人の人物の法号が刻まれている。
向かって左側面には、向井2世、9世、11世、13世の名が刻まれている。
「2世向井左近将監源忠勝
9世向井政香
11世向井正道2男政正業
明和17年1月中旬向井13代正養■」
「向井流水法宗家」2代目は忠勝であり墓石と同じであるが、「9世政香」は向井流8代目にあたり、「11世正道」は10代目(正通)、「13世正養」は向井流11代目正義(養子)から明治元年(1868)に本家筋を譲られたが、「向井流水法宗家」に名前はない。
また、暮石向かって右側に東京都教育委員会による碑がある。その内容は以下のとおりである。
[向井家墓]
都旧跡 向井忠勝墓
所在 江東区深川2丁目1番地 陽岳寺内
指定 大正14年(1968)1月
向井忠勝は徳川幕府の御舟方(海軍)の首脳として幕府創設にあたって功労が多かった。忠勝は左近衛将監を称し、徳川氏に仕え海戦に従い、天正18年(1950)3月甲斐の稗将鵜殿兵部の軍船を三島浜に奪ったのをはじめ慶長の年の大坂の役には九鬼守隆と舟師をひきいて伝法海口において大いに戦い功によって相模、上総に領地をうけた。寛永18年(1641)7月死去したが、子孫は代々幕府の船手として仕えた。忠勝の墓はその開基である陽岳寺にあって、法名を「陽岳寺殿天海玄祐居士」という。
昭和43年(1968)3月1日 建設
東京都教育委員会
忠勝の法号は陽岳寺では「陽岳寺殿天海玄祐居士」、見桃寺では「真珠院殿月峯宗心居士」である。
ご住職向井眞幸氏にお話を伺えたが、向井流泳法について習得はしていらっしゃらず、詳しくはご存じなかった。だが、陽岳寺ホームページでは向井家について詳しく載せられている。
(陽岳寺ホームページhttp://home.att.ne.jp/wind/gakusan/)
陽岳寺様、調査にご協力いただきましてありがとうございます。
名称 | 長光山陽岳寺(臨済宗妙心寺派) |
住所 | 東京都江東区深川2-16-27 |
調査日 | 平成23年(2011)12月8日 |
陽岳寺は2代忠勝が、寛永14年(1637年)見桃寺(現神奈川県三浦市白石町19-2。紫陽山見桃寺)の僧文室祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に開創した臨済宗妙心寺派の寺院である。
[長光山陽岳寺]
[陽岳寺(向井忠勝墓)由来碑]
陽岳寺すぐの歩道に陽岳寺の由来碑がある。由来碑には、陽岳寺向井忠勝墓の写真と忠勝について述べている。内容は以下のとおりである。
陽岳寺
(向井忠勝墓)
向井忠勝(1582(天正10年)~ 1641(寛永18年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。
慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎げ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。
また、陽岳寺について『江戸名所図会』に記されている。以下引用する。(向井忠勝墓)
向井忠勝(1582(天正10年)~ 1641(寛永18年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。
慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎げ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。
長光山陽嶽寺 深川富岡橋の北詰横小路にあり。妙心寺派の禅宗にして、本尊観音大士の像は恵心僧都の作なりと云ふ。向井氏忠勝開基の精舎にして、文室和尚を開山とす。(陽嶽は向井氏の法号なり。)和尚は相州三崎見桃寺白室和尚の法弟なり。(見桃寺も領主向井氏布金の道場なりといふ。)
出山の釈迦如来像(立像3尺ばかりあり、極めて妙作なり。坪内大隅正勝といへる人、当寺文室和尚の需に応じて彫刻せしよし、寺記にみえたり。)2代目英一蝶の墳墓(当寺卵塔の中にあり。碑面に機外道輪信士元文2年丁巳(1737)閏11月12日と記してあり。通称は長八、名は信勝といふ。)
以上、引用。
[向井忠勝墓]
忠勝の墓は陽岳寺内にあり、当然の訪問であったがお寺の方に快く案内していただいた。また、撮影の許可をいただいた。
墓石には向井家の人々の名前、法号が刻まれている。
向かって前面には3人の女性の名前が刻まれる。
「■■■■■自春大姉 7世向井正眞娘
光寿院園巌常明大姉 同
妙智院新月霊性大姉 同」
7代「向井正眞」の娘3人であると刻まれているが、「向井正眞」なる人物は不明である。
向かって右側面にも3人の人物の法号が刻まれている。
向かって左側面には、向井2世、9世、11世、13世の名が刻まれている。
「2世向井左近将監源忠勝
9世向井政香
11世向井正道2男政正業
明和17年1月中旬向井13代正養■」
「向井流水法宗家」2代目は忠勝であり墓石と同じであるが、「9世政香」は向井流8代目にあたり、「11世正道」は10代目(正通)、「13世正養」は向井流11代目正義(養子)から明治元年(1868)に本家筋を譲られたが、「向井流水法宗家」に名前はない。
また、暮石向かって右側に東京都教育委員会による碑がある。その内容は以下のとおりである。
[向井家墓]
都旧跡 向井忠勝墓
所在 江東区深川2丁目1番地 陽岳寺内
指定 大正14年(1968)1月
向井忠勝は徳川幕府の御舟方(海軍)の首脳として幕府創設にあたって功労が多かった。忠勝は左近衛将監を称し、徳川氏に仕え海戦に従い、天正18年(1950)3月甲斐の稗将鵜殿兵部の軍船を三島浜に奪ったのをはじめ慶長の年の大坂の役には九鬼守隆と舟師をひきいて伝法海口において大いに戦い功によって相模、上総に領地をうけた。寛永18年(1641)7月死去したが、子孫は代々幕府の船手として仕えた。忠勝の墓はその開基である陽岳寺にあって、法名を「陽岳寺殿天海玄祐居士」という。
昭和43年(1968)3月1日 建設
東京都教育委員会
忠勝の法号は陽岳寺では「陽岳寺殿天海玄祐居士」、見桃寺では「真珠院殿月峯宗心居士」である。
ご住職向井眞幸氏にお話を伺えたが、向井流泳法について習得はしていらっしゃらず、詳しくはご存じなかった。だが、陽岳寺ホームページでは向井家について詳しく載せられている。
(陽岳寺ホームページhttp://home.att.ne.jp/wind/gakusan/)
陽岳寺様、調査にご協力いただきましてありがとうございます。
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