向井将監屋敷跡
2代目向井左近将監忠勝のときからの江戸向井家将監屋敷、または役宅のあった場所である。享保2年(1717)、およびに享保6年(1721)3月11日、6代正員のとき焼失した霊岸島の役宅があった場所もこの場所である。

[向井将監屋敷 「江戸図屏風」]
国立歴史民俗博物館ホームページ
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/index.html

[向井将監屋敷 「日本橋南之図」]
図、真ん中の下に「向井将監屋敷」とある。

[向井将監屋敷 『大江戸今昔マップ』]新人物往来社 2011.9.29
『大江戸今昔マップ』は古地図と現代地図を合わせて見られるようになっており、より詳しく向井将監跡地がどこにあったのか、どれほどの規模だったのかがわかる。
文久3年(1863)再刻の尾張屋清七版「日本橋南之絵図」の左下に「御船手向井将監」は記されている。屋敷の南を流れるのが現亀島川、東を流れるのが現隅田川である。
現在この場所はビル群になっており、向井将監屋敷跡地を示すものはないが、隅田川堤防の地図には「向井将監ゆかりの地」と、この場所を紹介している。

向井将監ゆかりの地
1590年(天正18)、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康の武将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。さらに慶長(1614)、元和(1615)両度の大阪陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、大いに軍功を賞されました。忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。
(株式会社名著出版刊『東京ふるさと文庫⑨江東区の歴史』より)

[東から見た向井将監屋敷跡]
屋敷跡地の東、中央区新川と佃を結ぶ中央大橋から屋敷跡地を眺める。赤い線の端から端までが屋敷の幅である。

[南西から見た向井将監屋敷跡]
屋敷跡地の南西から眺める。すぐ隣には現在徳船稲荷神社、南高橋がある。

[徳船稲荷神社]
[南高橋]

[屋敷跡地の南東から隅田川を眺める]

屋敷跡地の南東から隅田川を眺める。図右側から流れる亀島川は、図左側から流れる隅田川に合流する。当時の風景がどのようなものだったかは不明だが、400年の時を経て向井氏と同じ場所に立つのは感慨深いものがある。
調査途中に歩いた亀島橋に向井屋敷のことが記されていたので紹介する。


[亀島橋由来碑]
御船手組(将監河岸)
江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。
大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582~1641)を始め、向井家は代々、将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。
また、 1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設置され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。
2002年(平成14年)6月 中央区土木部

[安宅船 天地丸]
安宅丸は東京クルーズで370年振りに蘇っております。
「御座船 安宅丸」ホームページ
http://www.gozabune.jp/index.html
名称 | 向井将監屋敷跡 |
住所 | 東京都中央区新川2丁目 |
調査日 | 平成23年(2011)11月8日 |
[向井将監屋敷 「江戸図屏風」]
国立歴史民俗博物館ホームページ
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/index.html
[向井将監屋敷 「日本橋南之図」]
図、真ん中の下に「向井将監屋敷」とある。
[向井将監屋敷 『大江戸今昔マップ』]新人物往来社 2011.9.29
『大江戸今昔マップ』は古地図と現代地図を合わせて見られるようになっており、より詳しく向井将監跡地がどこにあったのか、どれほどの規模だったのかがわかる。
文久3年(1863)再刻の尾張屋清七版「日本橋南之絵図」の左下に「御船手向井将監」は記されている。屋敷の南を流れるのが現亀島川、東を流れるのが現隅田川である。
現在この場所はビル群になっており、向井将監屋敷跡地を示すものはないが、隅田川堤防の地図には「向井将監ゆかりの地」と、この場所を紹介している。
向井将監ゆかりの地
1590年(天正18)、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康の武将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。さらに慶長(1614)、元和(1615)両度の大阪陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、大いに軍功を賞されました。忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。
(株式会社名著出版刊『東京ふるさと文庫⑨江東区の歴史』より)
[東から見た向井将監屋敷跡]
屋敷跡地の東、中央区新川と佃を結ぶ中央大橋から屋敷跡地を眺める。赤い線の端から端までが屋敷の幅である。
[南西から見た向井将監屋敷跡]
屋敷跡地の南西から眺める。すぐ隣には現在徳船稲荷神社、南高橋がある。
[徳船稲荷神社]
[南高橋]
[屋敷跡地の南東から隅田川を眺める]
屋敷跡地の南東から隅田川を眺める。図右側から流れる亀島川は、図左側から流れる隅田川に合流する。当時の風景がどのようなものだったかは不明だが、400年の時を経て向井氏と同じ場所に立つのは感慨深いものがある。
調査途中に歩いた亀島橋に向井屋敷のことが記されていたので紹介する。
[亀島橋由来碑]
御船手組(将監河岸)
江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。
大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582~1641)を始め、向井家は代々、将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。
また、 1889年(明治22年)に東京湾汽船会社が設置され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。
2002年(平成14年)6月 中央区土木部
[安宅船 天地丸]
安宅丸は東京クルーズで370年振りに蘇っております。
「御座船 安宅丸」ホームページ
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