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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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『古老が語る 江東区のよもやま話』から水泳記録を紹介します。
この本は昭和59年(1984)1月から昭和60年(1985)3月の間に、「古老」と称される人々から話を聞いたものをまとめた本になっています。
5人ご紹介します。

「古老」の名前・生まれ・職業、当時の住所が記されていたので、私もそのまま紹介します。
漢数字は読みにくいので、アラビア数字に直させて頂きました。
 
①日暮貞太郎さん
 明治36年12月19日森下町生
 玩具師
 石島在住
水練場の話
 両国の本所側には、百本杭っていって、杭がずうっと打ってあったんですが、その百本杭のほうに、伝馬船に櫓を組んだ水練場が4、5軒あったんです。それで、先生がついて、いくらいくらって金を取って教えたんですが、水府流ってのがはやってましたね。
 ですから、泳ぎ方なんてのも、今みたいに、のしですとか、かた抜き、両抜き手だとかいう流技でした。泳ぐときは、みんな白い揮で、色が変わるのは帽子だけです。級で帽子を色分けするのですが、1番最高は、黒い筋が3本入りましたね。それで、伝馬船から飛びこんだんです。泳げないのは、船の桟みたいなのにつかまって、バタバタやってましたよ。その時分は、アメンボウがいくらもいましてね。アメンボウの足取っちゃって、飲んだものです。そすっと、泳ぎが上手んなるなんていわれましてね。
 
【日暮さんは水府流のようです。向井流と同じで帽子の色や線の数でレベルが違ったようです。中島】

IMG_0002.jpg




図①、隅田川の水泳
 

 
②長谷川常吉さん
 明治43年2月10日亀戸町生
 タクシー運転手(もと都職員)
 亀戸4丁目在住
小鮒だます水練場
 中川の平井橋のところに、講武の永田水泳場、中川の海のほうに近寄った日立のところに、三枝というのがありまして、あたしは、三枝のほうにいきました。先生は、〝三枝〟っていう男親と伜がやっていて、あとはアルバイトだったと思います。そこの南側には、魚を育てて売ってた養魚揚がありました。当時は、ふつう水練場といってましたが、三枝のほうは〝小鮒だます水泳揚〟なんてもいってました。〝水都筑波の中川、開国素行養える、ここは永田の水練場〟って、もう片方を歌ったものです。水都は、水の都ですね。筑波山から、中川は流れてきているということです。それから、はっきり記億にないんですが、川に入っていっても、泳げないのは、すのこを下にも横にもおいて、箱のようにして、その中に入って、バチャバチャやらせましたね。
 
【永田流は水府流の流れの流派です。日本水泳連盟が認めた現存、日本泳法12流派の中には含まれません。「三枝」さんがどの流派の方かわからないので、調べてみたいと思います! 中島】
 

 
③村山隆さん
 明治40年12月20日亀戸町生
 区行政委員(もと区役所勤務)
 亀戸5丁目在住
百本杭の水練場
 水泳は、7歳からやったので、水泳教授の免状をもってますね。7つの時は、隅田川の柳橋の百本杭のところへ、稽古にかよったもんです。それで、2年目から、その練習場が中川の平井橋の下のところに移転したんです。当時の柳橋の水泳場っていうのは、土手から降りられるんです。水もきれいでしたし、きれいでないと許可にならなかったのです。ところが、隅田川の水がよごれて、水泳場がおかしくなったわけです。それで、「そろそろ移転しなければ」と先をみこして、こちらへ越してきたわけです。それで、あたしも2年目から、こっちへいった。中川のところは、永田水泳場っていうんですが、永田流ともいってました。隅田川クラブなんかがやる、3月10日の寒中水泳もやっぱりやりました。あたしは、水泳場では、1番古い組でしょうね。戦災でみんな散っちゃったし、今もう何人も残ってないんじゃないですか。
 
【百本杭の水練場…場所が特定できているので、何流だったかはわかるはず。調べてみます。ただ図②の飛び込みの型を見る限り向井流ではないと思われます。中島】

IMG_0003.jpg









図②、柳橋・百本杭の水練場
 

 
④関茂豊次さん
 明治40年5月25日亀戸町生
 自動車修理工場
 亀戸7丁目在住
水泳の話
 竪川は、川の水がきれいなのに、泳がせないんだ。だから、お巡りさんの目を盗んで泳ぐ。川のこっちが大島、向こうが亀戸。10間か12間あるから、泳いでいって、むこう岸につくと、向こうにわれわれみたいな子供がいて、「このやろう」と喧嘩になる。でも、お巡りさんには捕まんないよ。着物をかかえて、さっさと逃げてっちゃうもん。学校にいくのは、短い着物に袴だったから、家に帰ってくると、袴を脱いで、遊びにいっちゃうわけ。泳ぐ時も、さっと脱いで、猿股だけになって泳いで、お巡りさんがきたら、さっとかかえて逃げていくわけだ。捕まっても、「気をつけろ。死んじゃうぞ」っておどかされるぐらいなんだけど。当時、竪川は、葦があまりでかくならないけど、両側にところどころはえていた。だんだん地盤沈下するから、水が上がる。水が上がってくるからそうなるのかわからないけど、今度は護岸をこしらえて、葦がなくなってきたね。小学校の時分には、水がひくと泥がでちゃうから、ダボハゼぐらいはとったよ。
 
【1間が約1,8メートルなので、10間~12間は約20メートルくらいです。昔は色んな川で泳がれていたのがわかります。中島】
 

 
⑤山本清一さん
 大正2年5月18日
 鉄工所経営
 大島9丁目在住
水泳の話と水練場
学校では、荒川ができてから、ひと夏あすこに水泳にいくの。そんで、学校から帰ると、今度は、竪川で泳ぐわけ。流れがけっこうすごかったんだけど、今の六之橋の欄干の上から、流れにのって、飛び込んだんだ。交番が中之橋のところにあって、裸で泳いでいるうちに、お巡りさんに着物をぜんぶもってかれちゃうんだよね。交番にいかなきゃ、着物返してくんないから、みんな裸でもって、トコトコ並んで、お巡りさんにあやまって、着物もってくるんだ。そんで翌日あたり、またやるわけだ。自分が悪いことしてるって感じはないわけだよ。けっこう危ないこともみんなやってたけど、別に怪我しなかったね。
 それから、通運丸って船が、行徳までいってたんだ。そこへ、子供たちが泳いでおっかけるの。そうすっと、向こうの船の人が、縄を投げてくれるわけ。それにつかまって、ずーっとぶらさがっていって、適当な時に、「オーイ」ってんで、自分で手を離して戻って帰ってくる。そういうことまでしてたけど、それでどうこうってことは聞いたことないんだよ。大人もちゃんと縄だしてくれるから、いい気になっていくわけよ。あの時分は、大人がそうやって、よく遊ばしてくれるようなもんだ。それから、小松川橋のほうの小さい橋に、水練場ってあったの。教師が何人かいる。川にヨシズ張りみたいの出して、そっから降りて、泳ぐんだ。級がいろいろあってね。最後の試験では、川を横切って泳ぐわけだ。
 
【隅田川から行徳に行くのが当時の船の水路だったようです。こちらの水練場も何流だったか調べてみます。中島】

3.jpg









図③、水練場
 
 
『古老が語る 江東区のよもやま話』江東ふるさと文庫⑥ 東京都江東区総務部広報課 昭和62年12月
 ①p59、②p60、③p61、④p62、⑤p63、図①60、図②p62、図③p63引用
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無題
いい時代 でしたね 今では考えられないような大人と子供のつながりを思います
瀬尾圭子 2011/07/23(Sat)19:19:43 編集
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