東京都江戸川区南葛西3丁目に鎮座する巨大な石。

これは旧海岸堤防の記念として、昭和61年(1986)3月に作られた「将監の鼻」です。

将監とは、向井将監忠勝のことを指します。
忠勝は徳川家の御船手奉行であり、向井家は代々徳川幕府の御船手奉行を世襲していきます。

由来

由来の隣には、葛西浦の汐干狩の様子(写真)があります。
写真提供は江戸川区に住む、友人です。
今度は自分で行ってみようと思います。
『江戸川区史』第1巻(昭和51年3月)、P108より引用
これは旧海岸堤防の記念として、昭和61年(1986)3月に作られた「将監の鼻」です。
将監とは、向井将監忠勝のことを指します。
忠勝は徳川家の御船手奉行であり、向井家は代々徳川幕府の御船手奉行を世襲していきます。
由来
昔、この地は“将監の鼻”と呼ばれ、海への玄関口として知られていました。
葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを彩る船が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリェーションの場としても親しまれていました。
この堤防は、昭和22年(1947)のカスリーン台風、続く昭和24年(1949)のキティ―台風による被害を経て、昭和26年(1951)に高潮から内陸を守る目的で建設に着手され、約4.5㎞に及ぶ工事が昭和32年(1957)に完成しました。
以来、幾多の自然の試練からこの地を守ってきました。
しかし、一方では、先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうという、つらい役割も担って来ました。昭和47年(1972)からの東京都の埋立事業により、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により、無事にその役割を終えました。
海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるために、堤防の一部を残し記念とします。
昭和61年(1986)3月
江戸川区長 中里喜一
由来の隣には、葛西浦の汐干狩の様子(写真)があります。
写真提供は江戸川区に住む、友人です。
今度は自分で行ってみようと思います。
また、『江戸川区史』には、将監という地名があると書かれています。
江戸川区堀江町(旧行徳領)にある左近川の河口左岸の地に将監という地名があるが、このいわれは往昔向井将監の屋敷があった地から生まれている。
向井氏はもと武田家の海賊衆で、武田氏の滅亡後家康に仕えた向井正綱が、家康に重要され、江戸湾の要衝三浦の三崎に船奉行として登用され、大阪の陣にも功があり、寛永18年(1641)正綱の子忠勝は走水奉行に任ぜられ、後船手頭の筆頭として6000石を給され、代々将監を称していた。
向井氏の堀江に住したのは武田衆時代のことであったと思われる。向井氏は本所石原に屋敷を給わっている。
『江戸川区史』第1巻(昭和51年3月)、P108より引用
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