『続隅田川とその両岸 上』豊島寛彰著 芳洲書院 昭和42年9月 のp153に「諏訪町河岸の水練場」って内容があります。
これは水練のはじめを書いてるようです。
諏訪町河岸の水練場
これは水練のはじめを書いてるようです。
諏訪町河岸の水練場
夏ともなれば、諏訪町河岸は水練場となった。その歴史は古く、将軍家光が正保4年(1647)の6月9日、隅田川を船でここに来
て、近習、外様、御徒衆らの水練を上覧し、またその月の25日にもここに来て、堀田加賀守
を召し「こんごは毎年河岸に小屋をかけ、御徒衆の非番の者に泳ぎの稽古をさせるよう」と
命じたと「正保日記」が伝えている。
て、近習、外様、御徒衆らの水練を上覧し、またその月の25日にもここに来て、堀田加賀守
を召し「こんごは毎年河岸に小屋をかけ、御徒衆の非番の者に泳ぎの稽古をさせるよう」と
命じたと「正保日記」が伝えている。
その後、毎年土用前から8月まで、諏訪町河岸には12ヵ所の水練小屋が出来、寛政年中(1789-90)からは毎日お徒行頭が小屋に出向いて監督をした。
このような歴史にはじまる水練は江戸時代はずっと続けられ、夏の風物の一つとなっていたが、それを受けつぎ明治時代から大正のはじめまでつづいていた。
大川べりには葭簀張りの小屋がずらりとならび、何々流、何流という旗が川風にはたはたとひらめいて、夏の訪ずれをつげると、河童どもが褌をさげて教習所に通った。当時はプールというものがなく、川全体が水泳場となったのである。
水泳着といっても、いまと違い、泳ぐ時は褌一本で泳ぎ、水着は泳がない時に着たもので、外を歩く時にだけ必要になるしろものであった。肌襦袢のような恰好の白木綿の水着は脊筋と袖のつけ根のぬい合わせのところをすこしあけてすき間を糸でつないでいた。
とにかく鎌倉や江之島まで出かけなくても隅田川で泳ぎが出来たので、金も、暇もいらないですんだ。それにつけても最近隅田川を「ごみだ川」と悪口されるのは残念でならないが、隅田川をそうしたのは、とどをつめればわれわれではないかと責任を感ずる。
隅田川のよき時代を知っている故老に、懐しい思い出を語ってもらうと、
駒形1丁目の井上正道翁は(ここに75年前から文房具店を開いている老舗のご主人)「水もきれいだったが空気もきれいで、空は澄み、水は澄み、この辺は住宅地にはもってこいの土地柄であった。
もう古い人も居なくなり商店では厩橋角の町田糸店と駒形どじょう、それにたくの店の3軒ぐらいでしょう。うちの前を入った駒形河岸には役者と2号さんの家が多く、つい先日、瀬戸内海に投身された市川団蔵さんはこの河岸に20年もいました。死ぬ前までです。曾我廼家五九郎さんの家もありました。震災前までは釣も出来ました……」と昔をかみしめるように語られた。
昔のようにきれいな水が流れ、空にもスモッグがなくなったら、これほどうれしいことはない。それを再現して、昔は「ゴミダ川」だったと冗談をとばせるようにしたいが、そう考えると「ゴミダ川」を見おさめておくのも今の中であろう。そして、ゴミダ川時代にめぐり合ったわれわれが、後にその思い出を子孫に語って聞かせる時もこよう。
原文の「正保日記」が見つからないです…。川で泳ぎたいです(中島)
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