向井将監正義
向井流11代目。父は鷹匠頭戸田五助。明治39年(1906)3月24日68歳で没する。(没年から計算して天保9年(1838)生まれ)
正義は10代正通の息子正民、正業が病死したため、嘉永6年(1853)12月20歳のときに正通の養子となった。安政3年(1856)7月、御船手見習となり両国橋下で番士奥衆(小姓組、小納戸衆、側衆)とともに馬川渡(水馬)を披露した。同5年(1858)3月、御船手となり家督を相続し、11月に布衣を許され「将監」の名を継ぎ、最後の「向井将監」となった。10代正直(祖父)、11代正通(父)同様に奥衆などに水泳を教えた。
文久元年(1861)7月、14代家茂に講武所に水泳を披露した。
文久2年(1862)7月4日、 幕府軍制改革により船手組が廃され、同年(1862)4月新たに軍艦操練所が設置された。正義は勝麟太郎(海舟)とともに軍艦操練所初代頭取を務めた。このとき家康以来徳川水軍筆頭の地位にあった向井家は、水軍の職務に終止符をうち陸の人となった。その後、若年寄支配下の正義は、御使番、歩兵頭などを務め、旧軍船の整理をし、勝麟太郎は新軍船の操練法の指導責任者となった。
慶応元年(1865)5月、歩兵頭従5位下豊前守となった。慶応3年(1867)10月23日、横須賀製鉄所奉行並を3日間のみ命じられ、3日後の慶応3年(1867)10月23日歩兵奉行を務め、伊豆守を授爵した。しかし、明治元年(1868)3月6日歩兵奉行を辞し、本家筋を正業(10代正通の2男)の子正養に譲り、4月1日平民となり名も「向井秋村」と改めた。
向井家は初代正綱以来徳川幕府御船手頭という誉れある家柄であり、正義も禄高2400石、従5位下の大身であったが、地位、名誉、財一切を棄て15代慶喜ともに静岡に隠遁した。
正義は静岡に住み、大地を開墾し茶畑を作ったが失敗し、下田港に移住した。その後正義は、夏は下田に来た明治学院の生徒に柿崎の浜(現静岡県下田市柿崎)で水泳を教えた。明治9年(1876)、下田治安裁判所代書人となり生涯をすごした。
明治34年(1901)3月25日に発行された『旧幕府』(第5巻第2号)に、正義(向井秋村)の「爐辺談話」という題の記事が載っており、懐古談の中に水泳に関する記事が載っている。
正義は明治39年(1906)3月24日68歳で没した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井流11代目。父は鷹匠頭戸田五助。明治39年(1906)3月24日68歳で没する。(没年から計算して天保9年(1838)生まれ)
正義は10代正通の息子正民、正業が病死したため、嘉永6年(1853)12月20歳のときに正通の養子となった。安政3年(1856)7月、御船手見習となり両国橋下で番士奥衆(小姓組、小納戸衆、側衆)とともに馬川渡(水馬)を披露した。同5年(1858)3月、御船手となり家督を相続し、11月に布衣を許され「将監」の名を継ぎ、最後の「向井将監」となった。10代正直(祖父)、11代正通(父)同様に奥衆などに水泳を教えた。
文久元年(1861)7月、14代家茂に講武所に水泳を披露した。
文久2年(1862)7月4日、 幕府軍制改革により船手組が廃され、同年(1862)4月新たに軍艦操練所が設置された。正義は勝麟太郎(海舟)とともに軍艦操練所初代頭取を務めた。このとき家康以来徳川水軍筆頭の地位にあった向井家は、水軍の職務に終止符をうち陸の人となった。その後、若年寄支配下の正義は、御使番、歩兵頭などを務め、旧軍船の整理をし、勝麟太郎は新軍船の操練法の指導責任者となった。
慶応元年(1865)5月、歩兵頭従5位下豊前守となった。慶応3年(1867)10月23日、横須賀製鉄所奉行並を3日間のみ命じられ、3日後の慶応3年(1867)10月23日歩兵奉行を務め、伊豆守を授爵した。しかし、明治元年(1868)3月6日歩兵奉行を辞し、本家筋を正業(10代正通の2男)の子正養に譲り、4月1日平民となり名も「向井秋村」と改めた。
向井家は初代正綱以来徳川幕府御船手頭という誉れある家柄であり、正義も禄高2400石、従5位下の大身であったが、地位、名誉、財一切を棄て15代慶喜ともに静岡に隠遁した。
正義は静岡に住み、大地を開墾し茶畑を作ったが失敗し、下田港に移住した。その後正義は、夏は下田に来た明治学院の生徒に柿崎の浜(現静岡県下田市柿崎)で水泳を教えた。明治9年(1876)、下田治安裁判所代書人となり生涯をすごした。
明治34年(1901)3月25日に発行された『旧幕府』(第5巻第2号)に、正義(向井秋村)の「爐辺談話」という題の記事が載っており、懐古談の中に水泳に関する記事が載っている。
正義は明治39年(1906)3月24日68歳で没した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
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向井将監正通
向井流10代目。父は向井将監正直。寛政8年(1796)生まれ。没年不詳。
正通は正直の長男であり、文化12年(1815)見習になり、文政4年(1821)9月家督を相続した。
文政元年(1818)9月、両国橋下で馬川渡(水馬)を11代家斉に披露した。また文政9年(1826)、11年(1828)、12年(1829)、天保13年(1841)には浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)で御船手組の者が水泳を披露、さらに天保12年(1840)7月、徒士、水主の水泳を深川安宅御蔵前(現東京都江東区新大橋)で披露した。天保12年(1840)7月のものでは、12代家慶が天地丸に乗り、徒士、水主の泳ぎを見た。徒士、水主は、抜手雁行、折紙(泳ぎ不明)、水筆(水書)、竟泳(不明)、西瓜取(不明)の泳ぎなどを披露したという。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により父正直の下に入門したが、正直は病であったために正通がその指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。また嘉永元年(1848)8月、江戸湾防備のために房総海岸富津(現千葉県富津市富津)に宿陣していた会津藩士は、富津、竹岡港間の海上約16㎞を8時間で遠泳した。このときの記念額は現在富津市の文化財として木更津上総博物館に保存されている。
安政元年(1854)大筒船打ち(不明)を披露、また同年(1854)12月、海船、押し送り船を建造した功で褒賞を賜った。
安政3年(1856)3月、幕府は築地に講武所を設け、旗本御家人の子息、厄介の武術習得に力を入れた。翌年(1857)4月には、同所に軍艦操練所が設置され、正通およびに他の御船手も水泳世話役を命じられた。
安政4年(1857)7月、佐倉藩主堀田備中守正睦の家臣、水術師範笹沼龍助は江戸出府のとき、嘉永6年(1853)8月、師である会津藩士高津助之進から許された『向井流水法秘伝書』を持参し正通を訪れた。正通に敬意を表するとともに秘伝書の検閲を願った。このことは持参した秘伝書の表紙に朱筆で記されているという。
正通の長男吉次郎正民は文政11年(1828)2月11代家斉に謁見したが、天保4年(1833)7月に病死した。また、正通2男源次郎正業は翌年(1834)5月家斉に謁見し、弘化2年(1845)7月父正通の務めを見習うようになり、12代家慶が天地丸に乗船し浜御庭に訪れたときには父正通の代役を務めたが、嘉永6年(1853)3月、37歳で病死した。
正通には長男正民、2男正業以外子がいなかったため、同年(1853)12月、20歳になる鷹匠頭戸田五介3男金三郎を迎えて養子とした。この金次郎が向井将監正義となり、向井流11代目を継いだ。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
向井流10代目。父は向井将監正直。寛政8年(1796)生まれ。没年不詳。
正通は正直の長男であり、文化12年(1815)見習になり、文政4年(1821)9月家督を相続した。
文政元年(1818)9月、両国橋下で馬川渡(水馬)を11代家斉に披露した。また文政9年(1826)、11年(1828)、12年(1829)、天保13年(1841)には浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)で御船手組の者が水泳を披露、さらに天保12年(1840)7月、徒士、水主の水泳を深川安宅御蔵前(現東京都江東区新大橋)で披露した。天保12年(1840)7月のものでは、12代家慶が天地丸に乗り、徒士、水主の泳ぎを見た。徒士、水主は、抜手雁行、折紙(泳ぎ不明)、水筆(水書)、竟泳(不明)、西瓜取(不明)の泳ぎなどを披露したという。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により父正直の下に入門したが、正直は病であったために正通がその指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。また嘉永元年(1848)8月、江戸湾防備のために房総海岸富津(現千葉県富津市富津)に宿陣していた会津藩士は、富津、竹岡港間の海上約16㎞を8時間で遠泳した。このときの記念額は現在富津市の文化財として木更津上総博物館に保存されている。
安政元年(1854)大筒船打ち(不明)を披露、また同年(1854)12月、海船、押し送り船を建造した功で褒賞を賜った。
安政3年(1856)3月、幕府は築地に講武所を設け、旗本御家人の子息、厄介の武術習得に力を入れた。翌年(1857)4月には、同所に軍艦操練所が設置され、正通およびに他の御船手も水泳世話役を命じられた。
安政4年(1857)7月、佐倉藩主堀田備中守正睦の家臣、水術師範笹沼龍助は江戸出府のとき、嘉永6年(1853)8月、師である会津藩士高津助之進から許された『向井流水法秘伝書』を持参し正通を訪れた。正通に敬意を表するとともに秘伝書の検閲を願った。このことは持参した秘伝書の表紙に朱筆で記されているという。
正通の長男吉次郎正民は文政11年(1828)2月11代家斉に謁見したが、天保4年(1833)7月に病死した。また、正通2男源次郎正業は翌年(1834)5月家斉に謁見し、弘化2年(1845)7月父正通の務めを見習うようになり、12代家慶が天地丸に乗船し浜御庭に訪れたときには父正通の代役を務めたが、嘉永6年(1853)3月、37歳で病死した。
正通には長男正民、2男正業以外子がいなかったため、同年(1853)12月、20歳になる鷹匠頭戸田五介3男金三郎を迎えて養子とした。この金次郎が向井将監正義となり、向井流11代目を継いだ。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
向井将監正直
向井流9代目。父は松平因幡守康真。生没年不詳。(おそらく明和5年(1768)生まれ)
正直は松平因幡守康真の7男であったが、8代政香の養子になり「将監」の名を継いだ。
寛政3年(1792)3月、24才のとき11代家斉に謁見した。同年(1792)8月28日から御船手見習を務め、養父政香ともに向井家譜系譜の整理をおこなった。また、養父政香とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。
寛政10年(1798)、御船手組の者の水泳上覧が浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)でおこなわれ、正直は小姓組、小納戸衆とともに馬川渡(水馬)を披露した。
文化4年(1807)3月正直は、6代正員が流儀が整え、正直が教義が整えた『向井流水法秘伝書』を編纂した。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理し游法、口訣、水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となった。これには初代正綱の父正重が武田信玄に求められ、永禄3年(1570)2月伊丹大隈守康直とともに船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記された。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により正直の下に入門した。このとき正直は病のため、息子正通が指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木啓三『水心』3号 2010.5.27 会津向井流水法会
向井流9代目。父は松平因幡守康真。生没年不詳。(おそらく明和5年(1768)生まれ)
正直は松平因幡守康真の7男であったが、8代政香の養子になり「将監」の名を継いだ。
寛政3年(1792)3月、24才のとき11代家斉に謁見した。同年(1792)8月28日から御船手見習を務め、養父政香ともに向井家譜系譜の整理をおこなった。また、養父政香とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。
寛政10年(1798)、御船手組の者の水泳上覧が浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)でおこなわれ、正直は小姓組、小納戸衆とともに馬川渡(水馬)を披露した。
文化4年(1807)3月正直は、6代正員が流儀が整え、正直が教義が整えた『向井流水法秘伝書』を編纂した。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理し游法、口訣、水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となった。これには初代正綱の父正重が武田信玄に求められ、永禄3年(1570)2月伊丹大隈守康直とともに船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記された。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により正直の下に入門した。このとき正直は病のため、息子正通が指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木啓三『水心』3号 2010.5.27 会津向井流水法会
向井将監政香
向井流8代目。父は向井将監政使。生没年不詳。(おそらく延享5年(1748)生まれ)
政香は政使の長男であり、宝暦7年(1757)6月9歳で家督を継ぎ、明和5年(1768)20歳で御船手となり水主84人を預かり、布衣を許された。父政使のときと同じに、この間11年は牧野織部成賢が目付に付き、御船手を兼務した。
天明6年(1786)6月17日、江戸で大雨が降り千住、本所、深川で出水の救助船を指揮し、12日間帰宅せず救出の指揮にあたった。
寛政に入ると外国船が日本近海に出没するようになり、老中松平定信は海防に力を入れ、相州浦賀で御船手の調練を盛んにおこなうようになった。これにより、寛政3年(1791)から政香は養子正直とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。寛政6年(1794)8月検閲がおこなわれたが、政香が指導した水主の泳ぎは格別に勝れていると評価され、政香は賞与を賜った。このとき政香は病中であったため、名代として息子正直が城に赴き御賞の御墨付を賜った。
政香は息子正直と協力して、向井家系譜を整理して幕府に提出した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井流8代目。父は向井将監政使。生没年不詳。(おそらく延享5年(1748)生まれ)
政香は政使の長男であり、宝暦7年(1757)6月9歳で家督を継ぎ、明和5年(1768)20歳で御船手となり水主84人を預かり、布衣を許された。父政使のときと同じに、この間11年は牧野織部成賢が目付に付き、御船手を兼務した。
天明6年(1786)6月17日、江戸で大雨が降り千住、本所、深川で出水の救助船を指揮し、12日間帰宅せず救出の指揮にあたった。
寛政に入ると外国船が日本近海に出没するようになり、老中松平定信は海防に力を入れ、相州浦賀で御船手の調練を盛んにおこなうようになった。これにより、寛政3年(1791)から政香は養子正直とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。寛政6年(1794)8月検閲がおこなわれたが、政香が指導した水主の泳ぎは格別に勝れていると評価され、政香は賞与を賜った。このとき政香は病中であったため、名代として息子正直が城に赴き御賞の御墨付を賜った。
政香は息子正直と協力して、向井家系譜を整理して幕府に提出した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井将監政使
向井流7代目。父は向井将監正員。宝暦7年(1757)3月40歳で没する。(没年から計算して享保2年(1717)生まれ)
政使は正員の長男であり、享保18年(1733)10月16歳で父正員の跡を継いだが、病弱であったため小普譜となった。また、25歳(1743)で御書院番士となった。
宝暦3年(1753)35歳で御船手奉行となり水主84人を預かり、布衣を許された。御船手奉行となるまでの間、河野勘右衛門通喬が目付に付き、御船手を兼務して代行し、他家の御船手頭が船手奉行の地位につくことは許されなかった。
宝暦7年(1757)3月40歳で没した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
向井流7代目。父は向井将監正員。宝暦7年(1757)3月40歳で没する。(没年から計算して享保2年(1717)生まれ)
政使は正員の長男であり、享保18年(1733)10月16歳で父正員の跡を継いだが、病弱であったため小普譜となった。また、25歳(1743)で御書院番士となった。
宝暦3年(1753)35歳で御船手奉行となり水主84人を預かり、布衣を許された。御船手奉行となるまでの間、河野勘右衛門通喬が目付に付き、御船手を兼務して代行し、他家の御船手頭が船手奉行の地位につくことは許されなかった。
宝暦7年(1757)3月40歳で没した。
参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
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向井流の泳ぎを習いながら勉強中
好きな型は「平掻」
諸抜手が難しい…
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