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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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 向井将監正員(まさかず)
向井流6代目。父は向井将監正盛。享保18年(1733)7月没する。没年齢不詳。
正員は、6代正盛の長男であり、元禄12年(1699)11月から父正盛の務めを見習うようになり、同16年(1703)家督を継いだ。天和2年(1682)に2代忠勝が建造した安宅丸を父正盛が解体し、向井家の水主同心は減り、正員は水主同心57人を預かった。
享保2年(1717)、霊岸島の役宅(現東京都中央区新川)が類焼し、金3千両を賜って建築した。このとき本所石原町(現東京都墨田区石原)に屋敷を建築したとされる。また役宅は、享保6年(1721)3月11日にも焼失した。
享保4年(1719)7月26日、8代吉宗が船で中川筋へ放鷹に出かけた際、正員とその他の御船手頭が指揮をおこない徒士(おかち)の泳ぎを披露した。各隊から徒士3人ずつ選び出し、合計57人の泳ぎを披露した。吉宗は紀州にいたときから水泳(観海流(かんかいりゅう))達者であり、この催しを喜んだ。享保8年(1723)7月18日にも両国橋川筋で徒士、番士の泳ぎを披露し、その後も度々披露した。また、吉宗は大いに水泳を奨励し紀州から岩倉(いわくら)(ごう)助重昌(すけしげまさ)(岩倉流(いわくらりゅう)流祖)、および門弟の吉田丹治、田原唯七など水泳熟達者を呼び寄せて、深川で番士や徒士に伝授するよう命じた。これにより水泳はより盛んになった。正員が向井流の流儀を整えたのは、おそらくこの時期だと推測できる。
享保6年(1721)6月28日、浅草川の川底に朽木が多く沈み、容易に取り除くことができず難渋した。正員は組下の水主同心を潜らせ、大部分を取り除き、吉宗から褒賞を賜った。
享保8年(1723)8月、巡見使とし豆州(ずしゅう)(現静岡県伊豆半島)、相州(現神奈川県)、房州(現千葉県)の浦々を調査した。そのときの調査で下田港が出入り不便であるため浦賀に船改所を移すこと、城ヶ島に灯明が無いため、船の通航が難しく夜間の対策を講ずるなどの処置を献策した。
享保9年(1724)1月、水主27人を増員され、合計84人となった。
享保17年(1732)、御船手の職を辞し寄合に列したが、翌18年(1733)7月に没した。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会

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向井将監正盛(まさもり)
向井流5代目。父は向井将監正方。母は服部玄蕃頭冬次の娘。宝永2年(1705)11月15日60歳で没する。(没年から計算して寛永21年(1645)生まれ)
正盛は4代正方の長男で、承応3年(1654)7月、9歳で4代家綱に謁見し、寛文3年(1663)18才では(『向井流水法書』では16歳と記されている)で小姓組番士(こしょうくみばんし)となった。
寛文7年(1667)、父正方の務めを見習うようになり、延宝2年(1674)9月、跡を継ぎ御召船奉行となり布衣(ほい)を許された。
天和2年(1682)4月21日、上野国新田郡(こうずけのくににったぐん)(現群馬県太田市)、下野国梁田郡(しもつけのくにやなだぐん)(現栃木県足利市)内に400石を加増され、知行地は合計2400石となった。以後幕末まで向井家の禄高は2400石である。
天和2年(1682)9月18日、2代忠勝(ただかつ)(正盛祖父)が寛永11年(1634)に建造した安宅丸(あたけまる)解体を小笠原丹後守長定、鍋島帯刀正恭とともに命じられた。解体理由は建造から50年を経過し、多額の維持費を要すること、巨体のために隅田川での進退が自由にならず、無用の長物と化したことといわれている。
元禄12年(1699)11月御船手頭の職を辞し、「竹翁」と号し、宝永2年(1705)11月15日60歳で没し、江戸深川長光山陽岳寺(ちょうこうさんようがくじ)に埋葬された。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井将監正方(まさかた)
向井流4代目。父は向井左近将監忠勝。母は江州浪人中田高心の娘。元和7年(1621)12月15日生まれ、延宝2年(1674)7月10日55歳で没する。
 正方は2代忠勝の5男であり、幼名は兵部忠綱。寛永4年(1627)8歳で2代秀忠に謁見した。
寛永7年(1630)6月25日、3代家光の天地丸乗船のとき、父忠勝、兄直宗とともに従い、翌日、家光より時服(じふく)3領、羽織(はおり)1領を賜った。寛永15年(1638)禄米300俵を賜る。
父忠勝没後の寛永18年(1641)12月4日、兄直宗とともに父の遺跡を継いだ。忠勝の知行地6千石のうち5千石を兄直宗が知行し、残り千石(旧相模国三浦郡大津村・森崎村)を正方が知行した。さらに兄直宗隊下の水主同心30人を預かり、御船手奉行となった。
しかし、兄直宗は寛永21年(1644年)6月に38歳の若さで死去し、その跡を継いだ直宗長男右衛門太郎直則が幼かったため、正方は直則の補佐役として水主50人を預かり、正保2年(1645)9月23日まで三崎番所、走水番所の奉行を仮役で兼人し、同年12月晦日に布衣を許された。だが、正保4年(1647)10月直則が早世したため、以後は正方が「将監」名と御船手頭の職務を継承することとなった。
寛永19年(1642)5月6日、3代家光が隅田川遊猟の帰途に御座船で帰ろうとしたが、干潮のため船が進めず、正方は家光の勘気を被り出仕を止められたが後に許された。慶安3年(1650)には、父忠勝が建造した安宅丸の修理を命じられた。
万治元年(1658)5月4日、4代家綱が初めて御座船に乗船し、正方は家綱より時服3領、羽織1領を下賜された。また、寛文2年(1662)6月家綱が安宅丸、天地丸に乗船のとき、正方は御船手組の筆頭とし家綱に酒肴、および盃を献じた。
同年(1662)6月11日、職務勉励により、相模国三浦郡(三浦郡小矢部村、金谷村、池上村、不入斗(いりやまず)村など)に千石を加増され、知行2千石となった。また、安宅丸、天地丸、龍玉丸の3船を預けられるとともに、渡辺五郎作某、椎木三左衛門某など水主50人を配下に加え、水主100人を預けられた。
寛文3年(1663)9月には母貞昌院(中田高心の娘)の菩提を弔うため、自らの知行地である相模国三浦郡大津村に所在した臨済宗吸江庵を貞昌寺(ていしょうじ)(現神奈川県横須賀市馬堀町1-29-20。竹林山貞昌寺)と改め、中興開基した。
延宝2年(1674)7月11日、正方は55歳で病没し、本人が望んだとおり江戸が見渡せる貞昌寺近くの「将監山」、あるいは「廟所山」と称される山上に埋葬された。法号は大通院義山浄節居士。
また正方の妻は服部玄蕃頭冬次の娘であり、寛文10年(1670)9月14日に41歳で病没した。正方没より4年早くに正方と同じ山上に埋葬された。法号は霊徳院心鑑自照大姉。
正方2男正里、3男政暉は、正方弟正興(忠勝6男)および正次(忠勝7男)両家の養子となった。その後、政暉はさらに向井主税重興(正興(忠勝6男)の子)養子となり、京都町奉行を務め、従5位下伊賀守に叙任される。
初代正綱(まさつな)以来、御船手組の筆頭として御召船奉行や三崎番所、走水番所の奉行をおこなってきた向井家は、4代正方以降、三崎、走水両番所、浦賀奉行所にその名前は見られなくなり、以後は徳川幕府御船手頭として江戸に活動の中心を移していった。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井右衛門佐直宗(うえもんのすけなおむね)
 向井流3代目。父は向井左近将監忠勝。母は長谷川長綱の娘。寛永21年(1644)6月38歳で没する。(没年から計算し、慶長7年(1602)生まれ)
 直宗は2代忠勝の2男であり、慶長19年(1614)8歳で2代秀忠に謁見し、御小姓組番士となった。また寛永7年(1630)6月25日3代家光の天地丸乗船のとき、父忠勝とともに従った。同9年(1632)8月14日御船手となり、水主同心30人を預けられ、同13年(1636)12月29日、布衣(ほい)(6位)が許された。同17年(1640)には西国巡見使を命ぜられた。
 寛永18年(1641)12月4日、父の遺跡を継ぎ5千石を知行し、残り千石を弟正方(まさかた)に分けた。さらに忠勝に預けられていた安宅丸、天地丸、数十船、およびに水主同心130人を引き継ぎ、自分の支配下にあった同心30人は正方に属させた。
忠勝のあとを継ぎ、御船手と走水奉行を兼任するが、寛永21年(1644年)6月に38歳の若さで死去し、父忠勝と同じく本叡山本覚院に埋葬された。直宗の墓標は相模国三浦郡見桃寺にもある。
同年(1644)12月25日、直宗のあとを直宗長男右衛門太郎直則が継ぐが、正保4年(1647)10月に早世し、向井流4代目は忠勝5男正方が継ぐこととなる。直則も同じく見桃寺に墓標がある。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木かほる「戦国期武田水軍向井氏について―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究』16号 1998 神奈川県地域史研究会
・武田光彦『向井一族』 昭和52.6 日本武家家紋研究所 
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井左近将監忠勝(さこんしょうげんただかつ)
 向井流2代目。父は向井兵庫頭正綱。母は長谷川三郎兵衛長久の娘。天正10年(1582)5月15日駿河国清水で生まれ、寛永18年(1641)10月14日江戸にて60歳で没する。
忠勝は慶長2年(1597)18歳の頃から、父正綱とともに2代将軍秀忠に仕えた。慶長6年(1601)には、相模国三浦郡内に知行地500石を拝領し、水主50人と将軍御座船国市丸を預かり、父正綱同様御船奉行となった。以後慶長15年(1610)、九鬼(くき)長門守守隆(ながとのかみもりたか)、久永源兵衛重勝らとともに淡路島に赴き、西国大名所有の500石以上の軍船を没収し、江戸湾と駿河湾へ回漕した。
忠勝の武勇は限りなく、慶長19年(1614)大阪冬の陣、および翌元和元年(1615)大阪夏の陣では、徳川水軍の一番槍として従者も付けず小船に乗り、単身敵船に乗り込み相手を海に突き落としたという。その戦功により、元和3年(1617)相模国三浦郡内に2千石が加増された。また、元和9年(1623)秀忠の上洛に従った。
父正綱没後の寛永2年(1625)、父の遺跡を継ぎ知行5千石、水主同心100名を預かることとなる。また、寛永3年(1626)、3代家光より朱印状を受け、相模国三浦郡内で26ヶ村4307石3斗、上総
望陀郡(まくだのこおり)内の3ヶ村575石1斗、同じく上総国周准郡(すすぐん)大和村57石5斗の合計5千石、および新たに新開地を含めた1006石6斗が加増され、知行地は6千石となった。さらに寛永9年(1632)には、相模国三浦郡の三崎番所、走水番所の奉行を兼任した。両番所は「海の関所」と称され、三崎番所では上方に向かう上り船を改め、走水番所では江戸に入る下り船を改めた。
寛永9年(1632)6月20日、3代家光は2代秀忠の遺命により安宅丸(あたけまる)の造船を忠勝に命じた。同11年(1634)伊豆国伊東(現静岡県伊東市)で安宅丸は建造された。安宅丸の外見は純日本的であったが、船体構造は洋式構造で長さ約47m、横幅約16m、深さ3mと当時日本最大の船であり、日光東照宮とともに将軍家の権威の象徴となった。この造船には、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力があったとされ、忠勝もまた、家康の命でおこなわれた西洋型造船時に相談役として協力した。翌12年(1635)、安宅丸は完成し、江戸にて回航し艤装をおこない、その後家光の観覧に忠勝は従った。安宅丸の姿を一目見ようと江戸中の人々が見学に訪れ、安宅丸は江戸の名物の1つとなった。
寛永14年(1637年)、忠勝は父母の菩提寺である見桃寺の僧文室(ぶんしつ)祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に長光山陽岳寺(ちょうこうさんようがくじ)(現東京都江東区深川2-16-27)を開創した。
忠勝は江戸において寛永18年(1641)、享年60歳で病没する。病名は不明である。江戸の本叡山本覚院(現東京都台東区上野公園。東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)本覚院)に埋葬されたとされるが、相模国三浦郡見桃寺にも墓標がある。法号は真珠院殿月峯宗心居士。
水軍としての活躍は忠勝の代で終わり、泰平の世が訪れる。忠勝は数々の功績により、従5位下、諸大夫(しょだいぶ)に命じられ、左近将監を叙爵した。
また忠勝の妻、中田高心の娘は寛文4年(1664)11月15日江戸にて64歳で病没し、深川霊岸寺に葬られた。法号は天窓院殿清誉教運宝寿大姉。
 



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