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日本泳法・向井流お勉強ブログ
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長光山(ちょうこうざん)陽岳寺(ようがくじ)
名称 長光山陽岳寺(臨済宗妙心寺派)
住所 東京都江東区深川2-16-27
調査日 平成23年(2011)12月8日
 
 
陽岳寺は2代(ただ)(かつ)が、寛永14年(1637年)見桃寺(けんとうじ)(現神奈川県三浦市白石町19-2。紫陽山見桃寺)の僧文室(ぶんしつ)祖郁を招き、向井家代々の墓所とするため江戸深川に開創した臨済宗妙心寺派の寺院である。

 
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 [長光山陽岳寺]

 
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 [陽岳寺(向井忠勝墓)由来碑]
 

陽岳寺すぐの歩道に陽岳寺の由来碑がある。由来碑には、陽岳寺向井忠勝墓の写真と忠勝について述べている。内容は以下のとおりである。
陽岳寺
(向井忠勝墓)
 向井忠勝(1582(天正10年)~ 1641(寛永18年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。
 慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎げ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。

 
 また、陽岳寺について『江戸名所図会』に記されている。以下引用する。
 長光山陽嶽寺(ちやうくわうざんやうがくじ) 深川富岡(とみをか)(ばし)北詰(きたづめ)(よこ)小路(こうぢ)にあり。妙心寺派(めうしんじは)の禅宗にして、本尊観音大士の像は()(しん)僧都(そうづ)の作なりと云ふ。向井(むかゐ)(うぢ)(ただ)(かつ)開基の精舎(しゃうじゃ)にして、文室(ぶんしつ)和尚(をしゃう)を開山とす。(陽嶽(やうがく)向井(むかゐ)(うぢ)の法号なり。)和尚は相州(さうしう)三崎(みさき)(けん)桃寺(たうじ)白室(はくしつ)和尚の法弟なり。(見桃寺(けうたうじ)も領主向井(むかゐ)(うぢ)()(きん)の道場なりといふ。)
出山(しゅつさん)の釈迦如来像(立像(りふぞう)3尺ばかりあり、(きは)めて妙作(めうさく)なり。坪内(つぼのうち)大隅(おおすみ)正勝(まさかつ)といへる人、当寺文室(ぶんしつ)和尚の(もとめ)に応じて彫刻せしよし、寺記にみえたり。)2代目英一蝶(はなぶさいってふ)の墳墓(当寺卵塔(らんたふ)(うち)にあり。碑面に機外(きぐわい)(だう)(りん)信士元(しんしげん)(ぶん)2年丁巳(1737)閏11月12日と(しる)してあり。通称は長八、名は(のぶ)(かつ)といふ。)
 以上、引用。
 
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  [向井忠勝墓]
 
 
 
忠勝の墓は陽岳寺内にあり、当然の訪問であったがお寺の方に快く案内していただいた。また、撮影の許可をいただいた。
 墓石には向井家の人々の名前、法号が刻まれている。
 向かって前面には3人の女性の名前が刻まれる。
「■■■■■自春大姉  7世向井正眞娘
 光寿院園巌常明大姉  同
 妙智院新月霊性大姉  同」
7代「向井正眞」の娘3人であると刻まれているが、「向井正眞」なる人物は不明である。
 向かって右側面にも3人の人物の法号が刻まれている。
 向かって左側面には、向井2世、9世、11世、13世の名が刻まれている。
「2世向井左近将監源忠勝
 9世向井政香(まさか)
 11世向井正道(まさみち)2男政正業
 明和17年1月中旬向井13代正養■」
「向井流水法宗家」2代目は忠勝であり墓石と同じであるが、「9世政香」は向井流8代目にあたり、「11世正道」は10代目(正通)、「13世正養」は向井流11代目正義(まさよし)(養子)から明治元年(1868)に本家筋を譲られたが、「向井流水法宗家」に名前はない。
また、暮石向かって右側に東京都教育委員会による碑がある。その内容は以下のとおりである。

 
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 [向井家墓]

都旧跡 向井忠勝墓
所在 江東区深川2丁目1番地 陽岳寺内
指定 大正14年(1968)1月
向井忠勝は徳川幕府の御舟方(海軍)の首脳として幕府創設にあたって功労が多かった。忠勝は左近衛将監を称し、徳川氏に仕え海戦に従い、天正18年(1950)3月甲斐の稗将鵜殿兵部の軍船を三島浜に奪ったのをはじめ慶長の年の大坂の役には九鬼守隆と舟師をひきいて伝法海口において大いに戦い功によって相模、上総に領地をうけた。寛永18年(1641)7月死去したが、子孫は代々幕府の船手として仕えた。忠勝の墓はその開基である陽岳寺にあって、法名を「陽岳寺殿天海玄祐居士」という。
 昭和43年(1968)3月1日 建設
 東京都教育委員会
 

忠勝の法号は陽岳寺では「陽岳寺殿天海玄祐居士」、見桃寺では「真珠院殿月峯宗心居士」である。

ご住職向井()(さき)氏にお話を伺えたが、向井流泳法について習得はしていらっしゃらず、詳しくはご存じなかった。だが、陽岳寺ホームページでは向井家について詳しく載せられている。
(陽岳寺ホームページhttp://home.att.ne.jp/wind/gakusan/)


陽岳寺様、調査にご協力いただきましてありがとうございます。
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海運(かいうん)(ばし)(あと)
名称 海運橋親柱
住所 東京都中央区日本橋1-20
東京都中央区日本橋兜町3
調査日 平成23年(2011)11月8日

橋の東詰に向井将監(むかいしょうげん)(ただ)(かつ)の屋敷があり、()(ふな)()(かしら)は幕府の海軍で、海賊衆とも称したため「将監(しょうげん)(ばし)」、「海賊(かいぞく)(ばし)」と呼ばれた。
橋は明治維新後に「海運(かいうん)(ばし)」と改称された。関東大震災(大正12年(1923))で橋が破損したため、昭和2年(1927)鉄橋に架け替えられたが、昭和37年(1662)撤去され、2基の親柱のみ現存する。

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 [海運橋親柱東側(日本橋兜町)]

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 [海運橋親柱西側(日本橋)]

日本橋1丁目側の親柱には中央区教育委員会による由来碑がある。その内容を紹介する。

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 [海運橋親柱由来碑]

海運(かいうん)(ばし)親柱
所在地 中央区日本橋1-20先
      日本橋兜町3先
 海運橋は、(かえで)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同8年(1875)、長さ8間(約15m)、幅6間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。         
 石橋は、関東大震災で破損し昭和2年(1927)に架け替えられました。この時、2基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年(1962)撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
平成6年(1994)3月
中央区教育委員会

 
小池章太郎編『江戸砂子』に海運橋のことが記されている。以下、引用する。
海賊(かいぞく)
又、将監橋、又、石橋とも云。青物町より阪本町渡す。むかし東はしづめに海賊御奉行向井将監殿のやしきあり。まへかたは石はし也。
引用以上。
 また、文久3年(1863)再刻の尾張屋清七版「日本橋南之絵図」には、橋の名前は「海賊橋」と記されている。
 
向井将監正直(まさなお)
向井流9代目。父は松平因幡守康真(やすまさ)。生没年不詳。(おそらく明和5年(1768)生まれ)
正直は松平因幡守康真の7男であったが、8代政香の養子になり「将監」の名を継いだ。
寛政3年(1792)3月、24才のとき11代家斉に謁見した。同年(1792)8月28日から御船手見習を務め、養父政香ともに向井家譜系譜の整理をおこなった。また、養父政香とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。
寛政10年(1798)、御船手組の者の水泳上覧が浜御庭海手(現東京都中央区浜離宮公園)でおこなわれ、正直は小姓組(こしょうくみ)小納戸衆(こなんどしゅう)とともに馬川渡(水馬(すいば))を披露した。
文化4年(1807)3月正直は、6代正員(まさかず)が流儀が整え、正直が教義が整えた『向井(むかい)流水法(りゅうすいほう)秘伝書(ひでんしょ)』を編纂した。これは向井家に代々伝えられた船手の泳ぎを整理し游法、口訣、水軍の活用すべき技術方法と心得を記したもので、以後伝授書となった。これには初代正綱(まさつな)の父正重(まさしげ)が武田信玄に求められ、永禄3年(1570)2月伊丹大隈守康直(いたみおおすみのかみやすなお)とともに船戦と船大将の心得を説いた甲州流水軍法「甲州流本殿船軍之巻」の内容も記された。
文化7年(1810)2月26日、幕府は江戸湾警備のため、会津藩に相州警備を命じた。そのため同9年(1812)6月、会津藩士高津助之進、赤塚志賀之助、肩峯勝興、石塚清英、生田勝政等5名は幕府の命により正直の下に入門した。このとき正直は病のため、息子正通(まさみち)が指導にあたった。文政元年(1818)9月、それぞれが免許皆伝し、会津藩に戻ったため会津藩では向井流が泳がれるようになった。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・鈴木啓三『水心』3号 2010.5.27 会津向井流水法会
 向井将監政香(まさか)
向井流8代目。父は向井将監政使。生没年不詳。(おそらく延享5年(1748)生まれ)
政香は政使の長男であり、宝暦7年(1757)6月9歳で家督を継ぎ、明和5年(1768)20歳で御船手となり水主84人を預かり、布衣を許された。父政使のときと同じに、この間11年は牧野(まきの)織部成賢(しげかた)が目付に付き、御船手を兼務した。
天明6年(1786)6月17日、江戸で大雨が降り千住、本所、深川で出水の救助船を指揮し、12日間帰宅せず救出の指揮にあたった。
寛政に入ると外国船が日本近海に出没するようになり、老中松平定信(まつだいらさだのぶ)は海防に力を入れ、相州浦賀で御船手の調練を盛んにおこなうようになった。これにより、寛政3年(1791)から政香は養子正直(まさなお)とともに相州浦賀、および三浦に交替で赴いて水主の海上調練を指導した。寛政6年(1794)8月検閲がおこなわれたが、政香が指導した水主の泳ぎは格別に勝れていると評価され、政香は賞与を賜った。このとき政香は病中であったため、名代として息子正直が城に赴き御賞の御墨付を賜った。
政香は息子正直と協力して、向井家系譜を整理して幕府に提出した。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
・横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』第41集 2005.3.31 横須賀市教育委員会
向井将監政使(まさよし)
向井流7代目。父は向井将監正員。宝暦7年(1757)3月40歳で没する。(没年から計算して享保2年(1717)生まれ)
政使は正員の長男であり、享保18年(1733)10月16歳で父正員の跡を継いだが、病弱であったため小普譜(こぶしん)となった。また、25歳(1743)で御書院番(ごしょいんばん)()となった。
宝暦3年(1753)35歳で御船手奉行となり水主84人を預かり、布衣を許された。御船手奉行となるまでの間、河野(こうの)勘右衛門通喬(みちたか)が目付に付き、御船手を兼務して代行し、他家の御船手頭が船手奉行の地位につくことは許されなかった。
宝暦7年(1757)3月40歳で没した。



参考文献
・竹原栄『向井流水法書』増補改訂 平成3.3.1 向井流水法会
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中島
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向井流の泳ぎを習いながら勉強中
好きな型は「平掻」
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